23. 宮原線麻生釣駅

〈位置〉 宝泉寺―北里 間

〈開業〉 昭和29年3月15日(一般駅?)
    →昭和36年10月1日(無人駅)
    →昭和59年12月1日(廃止)

〈乗車客数〉 ほとんど0

〈概要〉

国鉄宮原線は昭和12年6月にまず恵良―宝泉寺間が開通したが、当初から輸送量は少なかったらしく、戦争の長期化に伴い、昭和18年9月には一旦営業が休止されている。戦後は昭和23年4月より再開され、昭和29年3月になって漸く宝泉寺―肥後小国間が開通、その際宝泉寺―北里の長い駅間(15.2km)にこの麻生釣駅が設けられた。当駅は標高670mの高地にあり、九重高原の真っ只中で当時から周囲に人家はそれほど多くなかったに違いなく、旅客の便を図るというよりは"信号場"(運転)の必要性から駅が設定された可能性が高い。事実、昭和36年9月まで当駅には駅員が在駐して、列車交換が行われたことが各種文献から判明しており、その後無人化されて駅舎寄りにあった行違い用の線路は撤去されてしまったが、当時の駅舎(あまり見掛けない"石造り"の瀟洒な建物)は昭和59年の廃線時まで待合所として残っていた。晩年は乗降客がほとんどなく閑散としていたが、春だけはわずかながら"山菜採り"の旅客需要があったという。また、昭和53年に公開された「"男はつらいよ" 寅次郎わが道を行く」(松竹映画)に本駅が登場する話は結構有名で、高原地帯を縫うように走る沿線の風景はなかなか魅力溢れるものであったが、宮原線の営業収支は戦後もずっと深刻な赤字が続き、国鉄改革が急務となった昭和50年代に第1次廃止対象路線に指定されて、早々に廃止されてしまったのは本当に残念でならない。なお、線名の"宮原(みやのはる)"は熊本県小国町の中心集落の名前から採ったものという。


〈訪問記〉

以前から乗っておきたいとは思っていたが、当時は北海道のローカル線のほうが気になっていて、宮原線廃止が10日後に迫った昭和59年11月末になって漸く乗車訪問の機会を得た。廃線間近ということもあって普段は閑散としているはずの列車は超満員で、残念ながら通路に立ったまま流れ行く車窓風景を眺めるのが精一杯の状態。民家も疎らな高原地帯を走っているのはなんとかわかったが、昭和49年まで駅員配置で今も遺構がよく保存されている町田駅の風情や温泉街にある当時唯一の中間有人駅であった宝泉寺駅の様子はほとんど視野に入らず、「これじゃあ、ただ乗ったというだけだな〜」と思っていたところ、なんと麻生釣駅では数分間停車するというアナウンス。鉄道マニアへの特別配慮だったのかどうか定かではないが、いずれにしても絶好のチャンス到来とばかりにホームに降り立ち、(たった?)2枚だけ写真に収めることができた。窓枠は残るものの大きな木立の中に廃墟のように建つ、奇妙な"石造り"の待合室はすぐに目に入ったが、まさかこれが昔の駅舎だとは露ほども思わず、内部をよく観察したりカメラに収めなかったことが今となっては残念でならない。情報通り周囲には民家がほとんどなく、深名線の蕗ノ台駅や白樺駅、白糠線の北進駅に似た"秘境感"が漂う本当に趣深い駅であった。

・・・その後、ずっと宮原線や麻生釣駅のことは忘れていたが、つい先日、家族と旧・肥後小国駅跡に建つ「道の駅・小国(ゆうステーション)」に立ち寄る機会があり、何気なく2階のギャラリーをのぞいていたら、右の掲示プレート("国鉄宮原線沿革史")を見つけた。当・道の駅には旧・肥後小国駅構内にあった線路やポイント・駅名標の一部などもそのまま保存されており、このプレートも宮原線の廃線を記念して作製されたもの思われるが、なんと箇条書きの中に「昭和36年10月1日 麻生釣駅 駅員無配置となる」の1行を発見してびっくり仰天。筆者が常日頃頼りにしている「鉄道入場券図鑑 / 国鉄入場券チェックリスト」を初めとするほとんどの文献では、麻生釣駅は昭和29年の"開業時から無人駅"となっていたので、「あの秘境駅にかつて駅員がいた」という事実に強い衝撃を受けたのだった。

そこで、帰ってから早速ネット検索を掛けたところ、確かに麻生釣駅には昭和29〜36年の7年間だけ駅員が配置されていたことが判明。しかも、"熊本日日新聞"の「熊日写真ライブラリー」には昭和33年11月頃に件の駅舎を撮った写真が掲載されており、直立して列車を見送る駅員らしき人物も確認できた。ネット上では、この他にも無人化直後(昭和36年11月頃)のやはり駅舎を撮った画像が某HPに掲載されており、この2枚と廃線頃の待合所画像を参考にして、左のような在りし日の想像図を描いてみた。
 廃線頃、駅舎の周囲を覆っていた樹木は当時はまだかなり背が低く、在駐する駅員の手によって(?)きれいに剪定されていたことがわかる。しかし、場所が場所なだけに無人化後は急速に荒れてしまったと思われ、駅舎は引き続き待合所として使用されることになったものの、昭和50年代初期の写真を見ると既に駅務室部分の窓ガラスはなくなって、内部が"空っぽ"になっていることが確認できる。廃線後、この駅舎(待合室)がいつ頃まで残っていたのかは定かでないが、ネット上の複数の"廃線探訪"記事によると、現在の麻生釣駅跡はほとんど元の草原地帯に回帰しており、駅舎に向かう入口の小階段の他は遺構らしきものはほとんどなく、あまりの草叢のためホーム跡に近づくこともできない有様だという。

 


* 麻生釣駅で出札業務は行われたか?

 多くの資料では、麻生釣駅は昭和29年3月15日の開業時から"無人駅"ということになっていて、実際オークションなどで乗車券類を見掛けたことは皆無だが、前述の通り、当駅は昭和36年9月30日まで駅員がいたことがわかっているので、当然のことながら「出札業務は行われなかったのか」という疑問が湧く。この件については、「"sunebuとchabin"様のHP」に詳しい"鑑定"が掲載されているが、筆者としても改めて検討を加えてみたい。
 当時の麻生釣駅の出札状況を推測するのに大変役に立つ資料がこの方のHP「鉄道旅客輸送統計【懐古編】」にあり、戦前から昭和40年頃までの年度(4/1〜3/31)毎の乗車数・降車数及びそれらの内訳(定期/定期外)・入場料金を含む旅客雑収入などが全国の各駅毎にデータベース化されている。これによると、麻生釣駅はやはり乗降客数は沿線で最も少ないものの、開業当初は定期旅客もそこそこいたことがわかるが、"旅客雑収入"の欄を見ていくと、統計がある昭和28・30〜36年すべてで「無」となっていて、これらのデータを見る限り「出札業務が行われていたとは言えない」と結論できる。(実際、麻生釣駅のような極小駅では旅客雑収入が8年間一度も計上されなかったということは"あり得ないこともない"とは思うが...。) しかし、"信号場"はともかく、(主に"運転関係"を含む)駅員が配置される正規の駅で出札業務を行わない例は、国鉄時代北海道などではよく見掛けたが、筆者の知る限り九州では他に例がなく *1)、"sunebuとchabin"様が言われるように「当時の規則では乗車券類を発売する職員には資格が必要だった」という可能性も否定はできないものの、最盛期には1日に70人以上の乗客があるのに、ちゃんと駅員がおりながら「切符は車内で、定期券は降りる駅で買って下さい」と旅客に言えるのだろうか?という疑問が残る。
 昭和33年及び36年に撮影されたらしい駅舎の古写真(上記)を見ると、明らかに待合室と思われるスペースが既に左側にあり、出札口かチッキの受付とも考えられる窓口様の仕切りが駅務室との壁面に写っているのが確認できる。実は、この"窓口"は廃線(昭和59年)頃の待合室内にも痕跡が残っており、当時もう少しよく観察していれば、出札口かどうか判別できたかもしれないのだが、今となってはどうしようもない。(もし、当時この駅舎内部の写真を撮影した方がおられましたら、是非画像をお譲り下さい。) 問題は"sunebuとchabin"様が言われるように、有人駅当時の写真にも"改札口のラッチ"が写っていないという点である。昭和30年頃は国鉄の全盛期で、今考えると相当無駄と思われることでも規格を統一するために採算度外視で行う傾向が強かった時代に、「切符を売る有人駅なのに(実際は不要でも)改札口を造らないということがあり得るだろうか?」という疑問は確かに生じる。実際、九州では戦後になって信号場から正規の駅に昇格したような極小駅でも、ほとんど例外なく改札口は備わっており、昭和29年に新規開業した有人駅で改札口を造らない理由は?というと「切符を売らないから(無人駅と同じだから)」ということ以外には考えにくい感じもする。もし、それにもかかわらず当駅で乗車券類を発売した事実が判明すれば、この点は確かに大きな謎の1つであろう。

 また、通常、戦後に路線が延伸したケースでは、余程の理由がない限り同規模の中間駅は似たような規格で駅舎を建設するパターンが多い...ような気はする。宮原線の場合は隣の北里駅(左)が有人の"姉妹駅"となりそうだが、駅舎の構造(設計・材質等を含む)は全然違っており、しかも同一日に開業したのに、こちらにはちゃんと改札口があり、昭和36年12月9日まで入場券を含む各種乗車券類を発売したことが判明している。

 .....以上のような点から、やはり麻生釣駅で出札業務が行われたという明確な証拠はないものの、切符を全く売らなかったと断定することもできないと思われるため、月並みながら「(願望を込めて)かなり少量でも乗車券を発売した可能性を全く否定はできない」と筆者は考えたい。


(補足)
*1 国鉄の規則上は"無人駅"の扱いだが、実際には運転関係(閉塞・貨物取扱等)の要員が置かれていて(一部の)出札業務も兼務(以下「便宜出札」と仮称)するこの種の駅は、九州の場合、当時ローカル線を多く抱えて合理化も進んでいた門鉄局管内では結構事例が見られたが、実のところ他の鉄道管理局(肝心の分鉄局や熊鉄局・鹿鉄局)の実例はよく知らない。(ご存じの方はご教示下さい。)

 問題となっているような古い時代のことはよくわからないが、近年(民営化前頃)の便宜出札としては、香椎線酒殿駅(左)や日田彦山線石田駅、田川線崎山駅、佐賀線諸富駅、大村線南風崎・松原駅、松浦線上相浦駅など(いずれも無人化直後の暫定営業を除く)の"無人駅"で少なくとも一時期、左のような硬券の片乗(B型赤地紋金額式)を発売した例が知られている。これらの券には、民間会社等の簡易委託券に付される(ム)の記号がなく、様式的に一般駅・旅客駅発行の券と区別できないのが特徴で、入鋏規則は定かではないが改札鋏もちゃんと常備されていた。

 香椎線雁ノ巣駅(下)の場合も、昭和49年3月5日に一応"無人化"されたが、本駅が当時西戸崎―香椎間で唯一の交換駅だったため、実際には引き続き(昭和61年11月頃まで)運転関係の職員が在駐して、片手間に一部の乗車券類の発売(便宜出札)を行っていたと考えられる。規則上は"無人駅"なので入場券(左下)がないのは当然としても、当駅の場合は"無人化"に際して硬券の設備がすべて廃止となってから10年ぶりに硬乗が復活したとの情報だったが、筆者が昭和61年4月に立派な駅舎(当時)を訪問した際は、残念ながら「(今は?)硬券はない」とのことだった(右下)。同じ香椎線でも、なぜ酒殿駅等と設備の差があるのかわからないが、いずれにしても、貨物取扱を残して"無人化"された室木線古月駅や香椎線土井駅なども含めて、これら一連の"無人駅"には少なくとも"出補"(プラス"料補")位の補充券類は設備されていた可能性が高い。但し、麻生釣駅の場合は開業当初からの"無人駅"であり、また運転要員が廃止された年代も極めて古いため、これらの駅と同次元で比較できないのは当然である。("資格"問題は別にして、"国労・動労"が強かった時代は「他の業務は一切やらなかった」ということも十分に考えられる。)


(参考) 《宮原線麻生釣駅のデータ》

※ "鉄道旅客輸送統計【懐古編】"のデータベースを利用して作成しました。
(この場を借りて御礼申し上げます。)
 
乗車数(人) 降車数(人) 雑収入 備 考
昭28(1953) 1,621 1,717 29.-3.15.開業
昭29(1954) 27,916 37,212   乗 76.5人/日
昭30(1955) 23,678 32,315  
昭31(1956) 21,831 30,001  
昭32(1957) 22,007 28,177  
昭33(1958) 22,770 29,129  
昭34(1959) 22,916 25,667  
昭35(1960) 21,576 25,042  
昭36(1961) 19,876 22,255 36.-9.30.無人化
昭37(1962) 20,379 21,421  
昭38(1963) 21,728    
昭39(1964) 19,389    
昭40(1965) 17,248      
昭41(1966) 15,367      
昭42(1967) 16,042      
昭43(1968) 10,812 11,843    
昭44(1969) 9,520 9,925    
昭45(1970) 8,345 7,548    
昭46(1971) 6,515 6,510    
昭47(1972) 6,878 7,079    
昭48(1973) 6,483 6,501   乗 17.8人/日
昭49(1974) 4,952 5,246    
昭50(1975) 4,498 4,913    
昭51(1976) 3,457 3,551    
昭52(1977) 3,574 3,871    
昭53(1978) 4,859 5,028    
昭54(1979) 5,923 6,026    
昭55(1980) 5,691 5,886    
昭56(1981) 5,373 5,580    
昭57(1982) 4,178 4,593    
昭58(1983) 4,720 4,805    
昭59(1984) 4,395 5,083   59.12.-1.廃止

※ その後、このデータ集を作成された"ekinenpyou"様よりメールを頂き、「資料の見方が全然間違っている」というご指摘を受けました。汗顔の至りです。統計年は"年度"単位のため、昭和28年のデータは「29.-3.15.〜29.-3.31.」の2週間分ということになります。また、旧表の第4〜6列は乗車数・降車数の内訳を表示しているとのことで、したがってこれらの単位は「円」ではなく「人」であり、「そもそも麻生釣駅の乗車券類発売額のデータは全く存在せず、久大本線豊後森車掌区の旅客取扱収入という形で計上されているものの中に含まれていると考えられる」とのことでした。(そのため第4〜6列は削除しました。) 資料の扱いが不十分なまま考察を行いましたことを大変恥ずかしく思っております。資料を転載させて頂いたうえにご指摘のメールまで頂戴しました"ekinenpyou"様及び読者の皆様方に深くお詫び申し上げます。

※ さらにその後、"ekinenpyou"様より再度メールを頂き、麻生釣駅の昭和49〜59年(廃線時)までの追加データと「駅における旅客取扱収入の報告方」の一般原則についてご教示頂きました。"ekinenpyou"様によりますと、「原則として出札業務が行われた駅であれば"乗車券簿"などを駅ごとにつけているはずで、それが各駅の旅客取扱収入という形で報告・集計され、一部が統計資料に載る形となる」が、「麻生釣駅の場合、『駅員数僅少ナル駅』(下記)に該当していると思われるため、多客時などに臨時に管理駅から要員を派遣して出札を行っているなどの理由から、近隣管理駅の収入に混ぜて報告することを大分鉄道管理局長の裁量で許可していた可能性もある」とのご指摘でした。鉄道省が編纂した"運輸帳表取扱手続"第14条には「駅員ヲ配置セザル駅又ハ駅員ノ配置僅少ナル駅ニ於ケル帳表類ノ取扱方並ニ其ノ収入、払戻ノ報告方ニ関シテハ鉄道局長之ヲ定ムベシ」とあり、国鉄の場合も概ねこの規則を踏襲していると考えられるとのことです。但し、鉄道統計資料における麻生釣駅の旅客取扱収入の掲載がない以上、やはり日常的な乗車券類の発売は考えにくく、何らかの観光地等への経由駅として切符の臨時発売を行った可能性も否定はできないが、もしそのような事実があったとしても大抵は硬券ではなく、補充券のようなもので済ませていたケースが多いというお話でした。"ekinenpyou"様には重ねて深く御礼申し上げます。



〈時刻表〉

交通公社の時刻表(昭和36年10月号)。無人化直後のダイヤ改正により麻生釣駅での列車交換が廃止されたことがわかる。しかし、運転本数は逆に増えており、とりわけ肥後小国―北里間の"1駅列車"は目を惹く。(「北里行(FOR KITAZATO)」というサボが今もどこかに残っているのだろうか?)



〈麻生釣駅のきっぷ〉

 上記のような理由から、残念ながら当駅発行の乗車券類は存在するのかどうかさえ疑問視されており、仮に発行され現存しているとしても極めて数が少なく、恐らくほとんど市場(オークション等)には出て来ないと思われる。そこで、「もし存在するとしたらこんな感じでは?」という想像の下、左のような摸擬券を作ってみました。

普通入場券 10円券(昭和36年発行)摸擬券。上記の通り、統計による実績では1枚も売れていないことになっているが、口座が存在した可能性はゼロではない。もし実在してオークションに出れば6万円以上?



麻生釣駅発行の北里ゆき普通片道乗車券(昭和33年発行)摸擬券。入場券よりは実際に発行された可能性は高い。もし実在してオークションに出れば2万円以上?