1.  宗谷本線神路駅

〈位置〉 筬島―佐久 間

〈開業〉 大正11年11月8日(一般駅)
    →昭和49年10月1日(旅客駅)
    →昭和52年5月25日(信号場)
    →昭和61年?月?日(廃止)

〈乗車客数〉 限りなく0に近いと思われる

〈概要〉

天塩川沿いを走る国道40号線対岸の深い山中にあり、周囲には民家がまったくない。昔は集落もあったらしく、冬の間雪などで小学生が佐久の学校に通えない時は、先生が出張してきて駅舎を借りて授業を行ったという話が残っている。一般客の乗降がほとんど皆無になってからも廃駅を免れてきたのは、筬島―佐久間が18kmも離れているうえ、豪雪地帯にあって、列車の安全運行上容易に廃止できなかった背景があると思われる。(ようやく?)昭和52年に信号場に格下げとなり、時刻表から姿を消してもまだしばらくの間は客扱いをしていたというから驚きである。昭和59年11月9日、合理化により宗谷本線の大部分の中小駅が一斉に無人化されたので、恐らくこのときに信号場としての使命も終えたのではないかと想像する。


〈訪問記1〉

これらの写真は昭和59年7月頃、普通列車のいわゆる”運転停車”中に撮影したもので、当時は既に客扱いが廃止されていたのか、ドアは開かず、ホームに降りることはできなかった。写真の通り、運転関係の職員が駐在してホームの清掃管理が行き届いており、タブレットの交換風景も見られたが、前述のようにこの後間もなく廃止されてしまった可能性が高い。

〈訪問記2〉

廃止から久しい平成6年9月、廃駅跡を訪ねようとレンタカーを借りて再びやってきた。国道40号線を北上、筬島駅を過ぎてしばらくすると、左手に駅名の語源となった高い崖(「カムイ=ルエサニ」(神が降りる路))を見ながら”神路”の地名案内標識を確認。いよいよと思い待ち構えるが、一向に信号場跡に入っていく径が見当たらない。事前の調査では、遺構は天塩川の対岸にあるはずで、それならば当然川に橋が架かっていなければならないのに、それらしき気配もないままとうとう佐久に到着。そんなはずはないと思い、引き返して入念に見渡すがやはり橋を確認できず、やむを得ず筬島駅下手の地図にない小径を入っていくが、ものすごい山道が延々と続くばかりで、やがて行き止まり。営林署が管理する門扉があり、これ以上の通行は”署名が必要”とのことで、怖くなって引き返した。後日、某HPで、天塩川の橋梁はかなり以前に流失し、当時信号場跡へ行くには線路を辿る他方法がないことを知った。線路敷を歩くことは非常に危険で、絶対にしてはならない。文字通り、”陸の孤島”になっていたのである。


 なお、神路駅の具体的な廃止年月およびその後の状況について、えぞリス氏から情報をいただきました。以下、メールの内容を紹介いたします。
「神路駅ですが、廃止は86年(昭和61年)2月28日か3月2日だと思われます。当時の道内時刻表の1月号までは掲載されていますが、3月号には載っておりません。3月3日に国鉄のダイヤ改正が行われており、月末の締めであれば2月28日になり、ダイヤ改正に併せれば3月2日と言う事になります。詳細に付いては現在調査中ですが判明次第お知らせできればと思っております。現在、神路付近は天塩川対岸の為付近に近づく事は不可能ですが、保線区などの保守の場合、保線係員が列車に乗車した上で旧神路駅付近に臨時停車し乗降を行っています。事前に列車通達事項によって決められているので、まず一般人には未踏の地になりそうです。」


◆えぞリス様、本当にありがとうございました。


上記の点について、なまら氏より追加情報をいただきました。JTB発行の「停車場変遷大事典」によれば、神路駅の正式な廃止日は昭和60年3月14日になっているとのことです。

◆なまら様、本当にありがとうございました。


 当HPに情報を頂いているミック氏のお知り合いに「元筬島駅員で神路駅の助勤をされていた方」がおられるということで、ミック様にお願いをして代わりに色々と質問をして頂いたところ、"信号場時代の神路駅に関して"以下のようなご回答を頂きました。なかなか面白いので、氏のご好意によりメールの内容を紹介いたします。

1.勤務人員・勤務体制などついて
勤務時期: 昭和53年から2年間。
勤務人員: 駅長1名(信号場なのに、職名は駅長だそうです。)、助役1名、平の駅員1名、臨時雇いの駅員1名。
駅員の居住地: 音威子府にある国鉄官舎で、神路地区には住まなかった。僻地手当は勤務地で決まるので、音威子府に住みながら僻地手当をもらう神路駅勤務は羨ましがられたそうです。ちなみに筬島駅員は筬島に住んで、僻地手当なし。
勤務体系: 駅長と助役は交代で24時間勤務。朝出勤して、次の日の朝に帰る。平と臨時雇いの駅員は始発列車で出勤して、終列車で帰宅。昼間は二人体制だが、夜は駅長か助役が一人で神路駅に泊まることになる。駅舎内に畳の部屋があり、そこに布団を敷いて寝る。神路に配置されている職員のみだと勤務シフトが埋まらないので、音威子府や筬島など近隣の駅に助勤を依頼することとなる。」
2.その当時、神路駅から国道40号に出る道がまだあったかどうかについて
「神路大橋が落ちてから、国道40号線には出ることはできなくなったそうです。神路大橋以外の陸路もないので、完全に陸の孤島。筬島から林道で行けそうな感じもするけど、筬島から神路へ通じる道は無いとのことです。私見ですが、天塩川はカヌーが盛んで、観光客も乗せてくれるので、どうしてもというならカヌーで渡るしかないと思います。」
3.切符の発売・出札口の状況について
「切符の販売は信号場化されてからはないそうです。使われてはいないが、出札口自体はあったと思う。」
4.神路駅を日常的に利用する客がいたかどうかについて
「(2.のような状況なので、少なくとも信号場化後は)いるはずもなし。」
5.信号場化後(昭和52年以後)に実際に客扱いをしていたのかどうかについて
「信号場化後は(原則としては)客扱いはしていないとのこと。このころの普通列車の客車ドアは手動だから、降りようと思えば自由に降りられたようですが..。」
6.その他
ポイントの切り換え作業: 神路駅のポイントはスプリング式なので、基本的に作業を要さない。おもちゃのプラレールにあったようなもので、常に左の路線に入るようになっており、逆から来る列車は車輪を無理矢理割り込むことになる。割り込んでもスプリングで戻る。車輪が割り込んでスプリングで戻るたびに、「バチン!!」という音が鳴るそうです。冬期間はスプリングが凍り付くので、手作業で切り替えを行う。ただし、夜間は片方の路線だけを使うようにポイントを固定する。(併合閉塞にするため。すなわち、夜間の一人勤務時間は列車交換を行わない。)
駅員の食事: 近所にコンビニや食堂があるはずもなく、簡易水道とプロパンガスが駅舎にあるので、自分で炊事して食事したそうです。」


◆ミック様、本当にありがとうございました。


 さらに、北海道の匿名希望氏より"神路駅の現況"に関する貴重なメール(探訪レポート及び画像)を頂きました。前掲のとおり、現在陸路で現地に到達することは極めて至難のため、かなり貴重な内容です。氏作成の「神路なページ」をご覧ください。


◆"北海道の匿名希望"様、本当にありがとうございました。


 鉄道ジャーナル社が昭和47年に刊行した「日本の駅」という本の中に、在りし日の神路駅の木造駅舎(正面観)を撮った写真が掲載されていることを北の旅人氏から教えていただきました。掲載できないのが非常に残念ですが、時期的に間違いなく有人駅時代のものと思われます。(コンクリート製のエントランス部分が印象的)また、昭和47年頃刊行の「ふるさとの駅 〜北海道から鹿児島まで〜」(大森堅司)という写真集には、山の斜面から神路駅全体を撮った傑作(冬景)が載っているそうです。筆者は知らなかったのですが、いずれもかなり有名な本とのことで、ご存知の方も多いかもしれませんが.....。(しかし、両方共たぶん絶版と思われます。)
 また、昭和33年6月号時刻表に「音威子府7:27発->神路7:43着(5分折り返し?)7:48発->音威子府8:05着->...」という"神路駅発着"の便が存在したことも教えていただきました。この便は"気動車"運行で、下りは"日曜・祝日運休"、上りは"神路〜音威子府間のみ日曜・祝日運休"であることから、朝の通勤・通学のため(だけ)に神路駅まで延長運転されていたと考えられます。氏によると、昭和33年頃は開拓民たちが入植して数年後に当たり、神路地区の全盛期だったのではないかとのことでした。


◆"北の旅人"様、本当にありがとうございました。


 NHKが1977年(昭和52年)5月30日に放送した「新日本紀行」『今も心に生きる土地(4)<最終回>わが想い出の駅』の中で、無人化頃の神路駅の様子が紹介されていることをmc53008氏から教えていただきました。30分番組で神路関係の映像は5分強位だそうですが、「当時、神路駅を利用していると思われる地元客の話」など興味深い内容です。筆者はまだ見ていませんが、同回の再放送『わが山河 第4集 想い出の駅』(昭和55年6月12日放送)がNHKの"番組公開ライブラリー"に指定されており、全国のNHK放送局やNHKアーカイブス(埼玉県川口市)、NHK放送博物館(東京都港区)などで無料視聴できるとのことです。


◆"mc53008"様、本当にありがとうございました。


 昔、神路駅から筬島寄りに"物満内(ものまない)"という小集落があったことを駅長の息子氏から教えていただきました。現在も人家が残っているかどうかはよくわかりませんが、かつては学校("物満内小学校")まであり、神路駅を利用したのは主にこの地区の方々であろうとのことでした。氏は昭和40年代後半に上音威子府駅の国鉄官舎に住まわれた経験があり(4.天北線上音威子府駅参照)、同級生は物満内・筬島地区から神路・筬島駅を利用して音威子府中学校まで通っていたそうです。
 また、北見大橋氏によると、神路地区には昔"日本通運"の営業所もあったとのことでした。


◆"駅長の息子"様、"北見大橋"様、本当にありがとうございました。


 "信号場"時代の神路駅舎正面写真(左:昭和59年9月撮影)の貴重な画像をへい氏より送って頂きましたのでご紹介いたします。氏も、筆者とちょうど同時期に神路駅を訪れており、「運転停車中に車掌に申し出て、業務用降車口からホームへ降りることに成功した」とのことでした。上記「日本の駅」掲載の写真と比較すると、「神路駅」の駅看板が撤去されて正面玄関が完全に閉鎖されている他、格子状の木枠(?)の窓ガラスがすべてアルミサッシに改修されているのがわかります。原則"客扱い"は廃止されたので当然といえば当然ですが、なぜかエントランスの"軒"部分だけが中途半端に残っていて往時を偲ばせます。
 また、へい様は神路駅の特徴として「中継信号機」の存在を指摘されておられます。駅構内が佐久方向に大きくカーブしていて、出発信号機が筬島方向から識別できないために、独特の丸い中継用信号機がホームの近くに付いていたそうです。昭和44年に廃止になった神居古潭駅(函館本線)に似て、天塩川沿いの崖上に急カーブを描く駅であったことがわかります。 


◆"へい"様、本当にありがとうございました。


〈神路駅のきっぷ〉

普通入場券 30円券(昭和49年発行)。当時、送迎目的等でこの駅の入場券を購入する人はいるはずもなく、発売枚数のほぼ100%がその手のマニアに渡ったと思われる。同駅における出札営業(きっぷの発売)の最終日は昭和52年5月24日である。


〈時刻表〉

交通公社の時刻表(昭和47年3月号)。
晩年にもかかわらず、日に6往復が停車している。


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