4. 天北線上音威子府駅

〈位置〉 音威子府―小頓別 間

〈開業〉 大正3年11月7日(一般駅)
    →昭和48年9月17日(無人駅)
    →昭和62年12月1日(臨時駅)
    →平成元年5月1日(廃止)

〈乗車客数〉 限りなく0に近いと思われる

〈概要〉

大正3年、天北線(当時・天塩線)沿線で最も早くに開業した駅だが、もともと人口希薄な地域であったため当初から経営が危ぶまれていた。開業時、上音威子府地区の集落はわずか7戸、開業初日の乗客数はたった4人で、収入は28銭だったという。(「音威子府村史」より)その後、咲来にあった北海道大学の演習林派出所がこの地区に移転したため、一時集落は40戸にまで増加したが、幌延廻りの宗谷本線が開通して、天北線が支線に格下げとなってからは、逆に入植者の離農が進み、いつの間にか周辺の民家が姿を消していった。北海道ではよくあるパターンである。そのような状況にあっても、長らく目立った駅の合理化は行われなかったが、昭和35年9月に貨物の一部(車扱貨物)取扱いを廃止、昭和48年に至ってようやく旅客・貨物・荷物の取扱いを全廃して停留所化された。その後、昭和49年に北大演習林派出所の管理庁舎が音威子府地区に再移転してからは、駅の利用者がほとんど0となり、昭和62年から冬季(12/1〜3/31)の営業をを休止する臨時駅の扱いとなっている。なお、上音威子府―小頓別間には”天北栄”(てんぽくさかえ)という仮乗降場もあったが、こちらの方は早くも昭和40年10月には廃止されている。


〈訪問記1〉

この駅は、近年季節営業となったり、後述のように廃止から10数年を経てなお古い駅舎等の遺構がよく残っていることから、むしろ最近になって鉄道ファンの注目が集まっている。そのため、昭和58年から60年にかけて何回か天北線を訪れた際も、それほど意識することはなく、駅舎やホームのきちんとした写真をカメラに収めていなかった。今思うと残念でならない。トップの写真は、当時、音威子府4時16分発(下り721D)というローカル線では珍しい極めて早い一番列車からたまたま駅名標を撮影したもの(上音威子府着4時22分頃)。在りし日の手持ち画像はこれ1枚のみである。(もし、営業時の駅舎・ホーム等の写真をお持ちの方がおられましたら、是非画像をお譲りください。)


〈訪問記2〉

天北線廃止から5年余りを経た平成6年に廃線跡を訪れる機会があり、ようやく念願の”対面”を果たした。噂通り、線路は既に撤去されていたものの、駅舎やホーム、通信中継機室などが当時のままひっそりと残っていて、非常に趣深いものがあった。周囲には廃サイロが点在するのみで、やはり民家の姿はない。目と鼻の先には立派な道道(国道275号?)が走っていて、時折すごいスピードで車が通り過ぎていくが、駅舎は草に埋もれて既に景色と同化しており、余程気に留めておかなければ駅の存在に気付く人などいないだろうと思われた。

旧沿線のどこかの町村(失念しました)にある鉄道資料館に、在りし日の駅舎写真等が飾られていた。白黒で、かなり古いものと思われる。(昭和30〜40年代?)


 在りし日の上音威子府駅について、「時刻表の追跡調査などから、少なくとも昭和43年10月から44年8月の間、同駅で(旅客)列車交換が行われていたはず」という情報を北の旅人氏からいただきました。氏によると、
1.「その後昭和47年7月号のダイヤでは、既に上音威子府駅における(旅客)列車交換は廃止になっている」が、
2.「昭和47年12月号時刻表では、同じ昭和48年9月に無人化された松音知駅や上頓別駅でまだ列車交換が行われている」ことから、
3.「少なくとも昭和48年の無人化までは"行き違い設備"が残っていたのではないか」と推理されております。
 晩年は交換不能な「片面式」ホームであったことがはっきりしていますが、以前は原木などの貨物の取扱いも多かったはずなので、昔は少なくとももう1面のホームがあったことは間違いないようです。現に、廃止直前に撮影されたとみられる氏提供のビデオ画像を拝見すると、音威子府方向の駅舎対側に長い"引き込み線"が本線ときれいにY字型に分岐して存在することから、これが昔の"上り線"(の一部)だったのではないかとも思われます。氏によると、当時、松音知駅や上頓別駅では「対向式」ホームだったとのことですが、隣の小頓別駅や敏音知駅では「島式」(上下線が大きく離れている仕様)が採用されており、結局いずれのパターンであったかは結論が出ませんでした。何か情報をお持ちの方はご一報下さい。


◆北の旅人様、本当にありがとうございました。


 その後、なんと「上音威子府駅の無人化頃に同駅の官舎に住んでいた」という"駅長の息子"氏からメールを頂きました。氏のお父様が上音威子府駅(最後の)助役をされていたということで、当事者ならではの貴重なお話を伺うことができました。以下、氏のご好意により、メールの内容を紹介させて頂きます。

1.晩年の勤務人員・勤務体制などついて
「お父様の勤務時期: 昭和44年4月頃から昭和48年11月頃まで(助役)。
勤務人員: 駅長1名、助役1名の他、保線区の職員も2名いたそうです。
駅員の居住地: 駅のすぐ傍らに国鉄官舎があった。官舎は、駅を背にして左側に二戸建が1棟(駅長と保線区長が居住)、その横に当時はもう使われていなかった四戸建が1棟、そして"駅長の息子"様が住まわれていた四戸建がもう1棟(間取りは各六畳二間)、その裏にさらに一戸建が1棟あったとのこと。他に交代で沸かす"風呂用の建物"もあった。
勤務体系: 毎日2名体制で、朝5時30分から夜8時30分までの変則勤務。」
2.駅の構造について
「駅構内は上下線の"対向式ホーム"でした。"羽式ポイント"があって上下線の切り替えをしていました。」
3.駅の利用者などについて
「("駅長の息子"様ご本人を含む)通学生と近隣の北大演習林へ仕事に来ていた方たちが主な利用者でした。上音威子府の住民は皆知り合いで(切符の需要はあまりなく)、特に入場券についてはたまにマニアの方が買うくらいだったと思われます。」
4.当時の駅周辺・上音威子府地区の状況について
「当時、駅前に民家が1軒あり、その右横に集乳所、その横に雑貨屋さんが1軒ありましたが昭和46年頃にはなくなりました。"上音威子府小学校"が駅から左に500mくらいの所にありましたが、全校生徒は("駅長の息子"様が)卒業時にわずか11名でした。小学校の行事は村全体の一大イベントで、特に運動会、学芸会は皆が楽しみにしておりました。村祭りの際は小学校の体育館で映画(「フーテンの寅さん」)も上映されて、村人のほぼ全員が集まっていたのを思い出します。小学校も昭和49年か50年には廃校となり、今は"上音威子府小学校跡"の木碑だけが建っていると思います。当時の上音威子府地区は、駅と小学校と北大演習林あとは酪農家で、人口は全部で90人くらいだったと思われます。」

 また、駅前の国道は昭和45年頃までは舗装されていなかったこと、駅裏手は当時から山林に覆われていて、墓地はあったものの民家などは一切なかったことも教えて頂きました。さらに、氏によると当時は「駅のある所、乗降所以外は原則的に官舎があった」とのことで、「その他の(上音威子府規模の)非常に小さな駅にもちゃんと官舎は存在した」と考えてよさそうです。
 なお、"駅長の息子"氏のお父様は、その後、宗谷本線抜海駅長に転出され、渚滑線濁川駅長、宗谷本線風連駅長を経て、留萌駅勤務を最後に退職されたそうです。実は、氏ご本人も国鉄のOBで、「(当時のことは)昨日のことのように未だ鮮明に蘇ってきます。人生色々ありまして今は内地におりますが、北海道は私の故郷であり、最後は北海道に帰ろうと想っています。」とのお言葉が印象的でした。


◆"駅長の息子"様、本当にありがとうございました。


 上記の鉄道官舎や駅前民家の位置については、"おくとん"氏のサイト「道道資料北海道」に当時の地形図や付近の航空写真が掲載されています。また、同様に"天北栄仮乗降場"(上音威子府―小頓別間)についても大変詳細な考証が載せられていますので、是非ご参照をお奨めします。

◆"おくとん"様、本当にありがとうございました。


〈上音威子府駅のきっぷ〉

普通入場券 20円券(昭和43年発行)。昭和48年まで駅員が駐在して乗車券類の発売を行っていた。(簡易委託乗車券は昭和59年頃まで?)そのため、これらのきっぷ類も比較的残っていて、著しい稀少価値はない。


音威子府駅発行の上音威子府ゆき普通片道乗車券(昭和59年発行)。時折マニアが買っていく他はほとんど売れなかったはずである。廃止直前まで設備されていたので、それ程珍しいものではない。


※ その後、"へい"様から「53.10.-1現在 旭鉄局 簡易委託券発売駅一覧」を送って頂きましたが、その中になんと"上音威子府駅"が含まれていることがわかりました。上記"駅長の息子"様のご証言により、昭和50年代前半には既に、駅前商店も含めて付近に民家がなくなったことがわかっておりますので、一体どこで発売されていたのかが気になります。当時はまだ駅舎が利用されていたのでしょうか。何か情報をお持ちの方、実券をお持ちの方は是非お知らせ下さい。

◆"へい"様、本当にありがとうございました。

※ その後、再び"へい"様から上音威子府駅の簡易委託状況(当時)に関する貴重な情報を頂戴しましたので、ご紹介致します。
「上音威子府駅の簡託化日は"48.-9.17"で、無人化と引き換えに"近所の人"(字上音威子府在住の方)にお願いしたようです。昭和53年には委託契約は残っていますが、実売しているかどうかは不明で、さらに昭和59年の時点では53年とは違う人と契約したことがわかっています。この方は"天塩川温泉仮乗降場"の受託者にもなっており、止若内(南咲来)のほうの人のようですから、どういう事情で両方の駅を受託したのかよく分かりません。但し、当人はただの「契約者」で実際販売する人ではない可能性や誤記載の可能性も考えられます。また、旭鉄局の内部資料("へい"様調査)によると昭和59年の時点では上音威子府駅委託券の発売実績は「利用者なし」となっており、その直後に簡易委託自体を廃止した可能性が高いと思われます。」

◆"へい"様、重ねて篤く御礼申し上げます。