(特別企画)【"幻の軽便" 日本鉱業佐賀関鉄道】


1.はじめに

 本鉄道は数ある軽便鉄道(軌間762mm)の中でもなぜか影が薄い。風情ある白砂青松の海岸線を横目に見ながら、全長わずか9.1kmの線路を30分近くも掛けてトコトコと走る姿は、鉄道ブームの昨今ならばさぞかし持て囃されたに違いないが、早くも昭和38(1963)年5月には廃止されて、既に47年が過ぎ去ろうとしている。鉄道ファンならば色々な書籍を見て本鉄道をご存知の方も多いと思うが、せめて「あともう10年は存続してほしかった」と悔しがるのは、決して筆者だけではないはずだ。本鉄道の実態を完全に検証できるだけの十分な資料や記憶を残せないまま、早々に姿を消してしまったことが本当に残念でならない.....。
 高井薫平氏の名著「軽便追想」(ネコ・パブリッシング・1997)を読むと、この佐賀関鉄道に関して「当時の(鉄道ファン)仲間たちからはよくぞ行ったとあきれられた記憶があるくらい魅力の乏しい鉄道であった」という記述がある。当時は、大分県内だけでも他に大分交通宇佐参宮線(昭和40年廃止)・大分交通国東線(昭和41年廃止)・大分交通別大線(昭和47年廃止)・大分交通耶馬溪線(昭和50年廃止)など魅力ある路線が数多く残っており、新興の"産業線"としてのイメージが強い本鉄道は、どうしても後回しにされがちだったことがうかがわれる。しかし、本鉄道の"影が薄い"最大の要因はなんといってもその歴史の短さであろう。"17年"という年月をどう感じるかは実際には人それぞれであろうが、試しに今から17年前(平成5年頃)の出来事を銘々思い返して頂ければ、筆者ならずともその短い運行期間に驚かされると思う。しかも、あの超々秘境駅といわれている「蕗ノ台駅(深名線)にまだ駅員がいた時代」に本鉄道は廃止されたのである。
 あと3年ほどで廃線から半世紀が経とうとしているが、今回色々な資料を集めていく中で、当時も今と変わらず、いやそれ以上に熱心な鉄道愛好家がたくさんおられたことに驚きを禁じえなかった。ただ、惜しむらくは、どの資料を見ても"車輌"中心の調査研究が主体となっており、筆者の興味対象である駅や乗車券類などに関する記述や写真の類が非常に少ないことは、大変残念な点であった。そこで、本鉄道の車輌情報については、当時の鉄道専門誌及び最近の軽便鉄道関係の書籍にも非常に詳細な資料データが記されているので、詳しくはそちらを参照されることとして、このページでは特にそれらの資料の中で割合にあっさりと触れられている部分を中心に考察を進めたいと思う。
 本ページを読んで興味が湧いた方は、今からでも遅くはないので是非現地を訪れることをお奨めする。近年は本鉄道の遺構が急ピッチで失われつつあるので、できれば早いほうがよいかもしれない。きっと「本当にこんな所に鉄道が走っていたのか」という驚きの光景にお目にかかれるはずである。


2.佐賀関鉄道の沿革

(1) 佐賀関の地勢と歴史

 "佐賀関(さがのせき)"は大分県のほぼ中央部、県庁所在地・大分市の東端に位置し、およそ東西10数km、南北10km、北に国東(くにさき)半島、南に長目(ながめ)半島、東は豊後水道・速吸瀬戸(はやすいのせと・豊予海峡)を挟んで愛媛県佐田岬半島に囲まれた三角形の半島である。"佐賀関"の地名は意外と古く、既に奈良時代には文献に現れており、もと"須賀(すが)"と呼ばれた地域がいつしか"佐加(さか)"に訛り、霊亀元年(715)、豊後国海部郡佐加郷の朝日山に"関司"(関所)が置かれたことから「佐加(のち佐賀)の関」と呼ばれるようになったという。豊後水道の要衝にあるため、古くから海運の中継(補給)基地として重要な役割を果たし、中世は戦国大名・大友氏の所領を経て、江戸時代は熊本藩(肥後領)の"飛び地"となったため、西端にある"鶴崎港"は細川家の参勤交代経由地となっていた。
 その後、明治維新を経て、中心部は明治4年に"関村"と"古宮村"となった後、明治22年には人口7000人を超えて、早くも"佐賀関町"に昇格した。そして、戦後の昭和30年には隣接する"神崎村"と"一尺屋村"を合併し、最近(平成17年)大分市に合流して、自治体としての佐賀関町は120年弱の長い歴史を閉じている。やがて、町の中心部は"大分市大字関"となったが、"佐賀関"の名前を惜しむ声が強く、現在は異例の措置により"大分市大字佐賀関"に再改称されているという。
 大正・昭和期は日本鉱業佐賀関製錬所のおかげで町は潤い、昭和30年には人口26000人にも達したが、製錬所の合理化による人員削減の影響で漸減して、最近は13000人ほど(半減)で推移していた。もともと漁業の盛んな地域ではあったが、現在では、むしろ"関アジ・関サバ"ブランドの発祥地として全国にその名を知られている。


(2) 日本鉱業佐賀関製錬所の歴史と概要

 "佐賀関製錬所"は日本鉱業の前身、"久原鉱業"(久原房之助氏が大正元年に設立)によって大正5年9月に創業された。佐賀関にはかつて小規模ながら鉱山もあったようだが、当初より立地条件を生かして海外から鉱石を輸入製錬し、国内の基幹産業に原料(非鉄金属)を供給するのが狙いであった。主力製品は"銅"で、佐賀関鉄道全盛期の昭和30年頃は月平均1250tを生産し、その他鉱石製錬の過程で生じる副製品として金50kg・銀2500kg・硫酸3300tなども生産した。これらの原料受入・搬出の大半はもともと海上輸送が主体で、鉄道運行の時代はその極一部が陸上経由で運送されていたに過ぎない。
 製錬所の従業員(所員)は昭和31年頃1900人にも達し、昼夜連続業務の部署は現在に至るまで"3交替制"(7時・15時・22時)勤務で、その多くが町内大志生木・古宮などの専用社宅に居を構えていたが、近年、金属製錬事業の業績が悪化した時代に、合理化のためかなりの人員削減を行った結果、現在、大志生木の社宅は取り壊されて古宮社宅のほうに集約されているという。
 その後、日本鉱業は石油部門を関係会社の"共同石油"(共石)と統合して平成4年に"ジャパンエナジー"となり、不採算気味の金属製錬部門を切り離す形で、"新日鉱ホールディングス(持株会社)"傘下の"日鉱金属(平成18年4月より日鉱製錬)・佐賀関製錬所"*)として現在に至っている。もともと石油事業と金属製錬事業は日本鉱業の経営の"両輪"で、ずっと「片方が好調ならば片方が不調」の波を繰り返してきたが、最近(平成22年現在)はむしろ金属製錬事業のほうが好景気に沸いているという。

* 近年、国際競争力を強化するために本製錬所の経営母体はめまぐるしく変化しており、平成22年4月からは"パンパシフィック・カッパー株式会社"(JX日鉱日石金属と三井金属鉱業の共同設立会社)に吸収合併され、「パンパシフィック・カッパー佐賀関製錬所」が正式名称となっている。


 日本鉱業の社章は古くから"赤字太筆のマル"・通称「蛇の目(ジャノメ)」(左)が使用されており、略称は「日鉱(にっこう)」。以前は「N.K.K.」の略号も好んで使われていたが、製鉄大手の"日本鋼管"と紛らわしかったためか、現在ではほとんど目にすることはない。
 なお、佐賀関製錬所にはかつて"東洋一"と謂われた高い煙突が立ち、一時は教科書にも記載されて佐賀関町のシンボルとして親しまれたが、現在は海外の工場に首位の座を譲り、環境基準も厳しくなったため煙の排出量もかなり減少していると聞く。しかし、伝統的な漁法にこだわる"関アジ・関サバ漁師"は今もこの煙突を目安にして好漁場を選定しているという。


(3) 佐賀関鉄道建設までの経緯

 佐賀関に鉄道を招致しようという動きは、既に明治の末年頃からあった模様で、幸崎―臼杵間の"豊州線"建設計画段階では佐賀関海岸を迂回するルートも候補に上がっていたが、「佐賀関港に上陸する船客が町に足を止めずにすぐに立ち去ってしまう」ことを恐れた地元住民の足並みが揃わず、結局実現には至らなかった。そこで、仕方なく佐賀関製錬所は大正5年の創業時から幸崎―佐賀関間の"馬車輸送"(主に鉱石)を始めていたが、幸崎駅前にあった請負先の運送屋が所有する37台をフルに使っても幸崎駅に貨物が滞る始末だったという。そのため、町議会は大正7年に「幸崎・佐賀関間鉄道期成会」を発足させたものの計画は遅々として進まず、昭和8年になって"省営自動車(後の国鉄バス)佐賀関線"が、やや遅れて"大分バス"が参入した結果、鉄道建設の熱はやや沈静化した感もあった。しかし、昭和18年頃より戦争の激化で製錬所の海上輸送が困難になってきたことから、軍の要請もあって急遽鉄道建設計画が実現の運びとなり、早々の認可を経て昭和19年4月には着工となった。ところが、不休の突貫工事が進められたにもかかわらず、戦争末期の物資難・労働者不足のために工期が延び、線路の連結は昭和20年6月までずれ込んでいる。しかも、その直後に台風による土砂災害にも見舞われ、翌昭和21年2月に正式開通を迎えたときには、もはや"戦争による海上輸送の危険"は去っており、本路線建設の"大義名分"を失っていたのは何とも皮肉な話である。軌間762mmの"狭軌"(ナローゲージ)を採用するに至った経緯については省略するが、戦中の物資不足がその主因であったことは間違いない。なお、本鉄道は当初"鉱山鉄道"(不採用)ついで"専用鉄道"として認可手続きを進めたが、"専用鉄道"のまま旅客輸送を行うことは万一の事故などの際に責任上の問題があるとして、昭和23年6月からは"地方鉄道"として再出発している。


(4) 佐賀関鉄道廃線に至る経緯

 当初は客貨とも小型蒸気機関車を使った輸送が主体だったが、昭和26年4月からはサービス向上と経費節約のためディーゼルカー(気動車)が投入されたものの、17年間で採算が合ったのはわずかに延べ4ヵ年程だったという。さらには、昭和35年3月に高率運賃の貨物輸送を廃止したことでさらに営業係数が悪化し、晩年には年間2千万円を超える赤字を出すようになったため、昭和38年5月、ついに廃止のやむなきに至った。しかし、旅客輸送量は昭和34年頃には年間150万人を超えて、軽便鉄道としてはかなり多いほうであったが、旅客が漸増している中で路線を廃止せざるを得なかったのは、運賃不要の製錬所関係者の旅客割合が非常に高かったことが一因と考えられている。



 昭和38年5月15日の廃止当日は小雨で、関係者が見守る中、午後1時から日鉱佐賀関駅で閉業セレモニーが催され、"廃止記念列車"も走って、多くの町民が最後の別れを惜しんだという。左は「佐賀関鉄道おわかれ記念」のデコレーションが施された"ケコキハ512"気動車(笹葉弘子氏所蔵)。


(5) 佐賀関鉄道の組織

 佐賀関鉄道は日本鉱業佐賀関製錬所の一部門として、"業務部運輸課鉄道係"が運営に当たった。運輸課には他に運搬係と船舶係があり、重要な事務は製錬所構内の専用棟(後の業務課)で行われたが、現場の小事務は主に日鉱佐賀関駅舎内で処理されたようである。職員は総勢40〜50名で、内訳は、運転士5〜6名、車掌約10名の他、日鉱幸崎・日鉱大志生木・日鉱古宮・日鉱佐賀関の各駅員、機関区員、保線区員などから成り、数名の主任が各部署を統括して鉄道係長が責を負った。
 職員の中で特筆すべきは"車掌"で、今回お世話になった方(昭和37〜38年在籍)の回想によると、当時は全員が23歳以下の女性、白手袋に洒落た制服、"ジャノメ"マークが入った"ギャリソンキャップ(米軍)"風の制帽を着用し、車内業務全般の他、車輌の連結・切り離し(入れ換え)作業まで担当した。列車乗務は通常2名1組で各車輌を担当し、後方車掌が安全確認・出発合図を行って、前方車掌が"笛"を吹いたという。但し、全員若い女性だったため、労働基準法の問題から夜10時を過ぎる業務ついては、列車乗務も含めて他部署の男性職員が代行した。


3.佐賀関鉄道の駅

 本鉄道の駅については、大変残念なことに両端の日鉱幸崎駅と日鉱佐賀関駅の他はほとんど写真の類が存在せず、中間駅の構造等を推測するための資料が非常に不足している。しかし、今回、鉄道関係者及び地元住民への聞き取り調査の結果、なんとかホームと駅舎の配置については概ね判明した。路線のほぼ中間にある日鉱大志生木駅は列車交換のため"島式ホーム"が採用されていたが、それ以外は全て単純な"片面式ホーム"で、しかも8駅のうち日鉱本幸崎駅を除く7駅までが、線路の(下り方向)右側にホームがあったこともわかっている。

(1) 日鉱幸崎駅

 本鉄道の始発駅(国鉄接続駅)であり、ホーム屋根に「日鉱佐賀関製錬所 佐賀関鉄道」という大きな看板が掲げられていたせいか、当駅については撮影者の異なる複数の写真(いずれも国鉄ホームまたは跨線通路上から社線ホームを撮ったもの)を専門誌などでよく見掛ける。また、当時の8mm(宮内明朗氏撮影)を編集した「よみがえる総天然色の列車たち1」(ビコム)というDVD作品の中にも日鉱幸崎駅を出発する列車の映像が収録されており、これらの資料から全長は30m以上、そのうち20m弱が灰色の屋根で覆われた総コンクリート製のホームであったことが推測できる。本駅には駅員1名が常駐していたが、出改札の施設(窓口)はなかったことがわかっており、古写真のホーム上国鉄駅舎側にある小さな部屋は関係者によると駅員専用の事務室で、内部はほんの数畳のスペースに机くらいしかなかったという。旅客用のベンチはホームの屋根下にあり、駅名標もあったはずだが、残念ながらその位置や仕様は判明していない。「軽便追想」掲載の写真(昭和34年3月撮影)を見ると、社線(ナローゲージ)のすぐ横に国鉄の貨物側線が大分方向に伸びており、本線との合流ポイントも確認できるが、この側線は現在は使用されていないもののかろうじて原形を留めているため、その配置関係から当駅の具体的な位置を推定することができる(下図)。
 昭和36年撮影の航空写真を見ると、当時国鉄幸崎駅には跨線橋がなく、乗り換えの旅客は跨線通路で直接線路を横断して国鉄ホームに渡っていたようである。途中、社線ホームの入口で駅員が改札業務(社線内乗車券の回収及び連絡乗車券のチェックなど)はしていたが、出札は一切行わないので、社線内無札の旅客については乗車後に車内乗車券を購入することになっていたという。しかし、すべてを車内券で対応するならば、日鉱幸崎駅から直接乗下車する旅客は無札のまま国鉄改札口を通るか、連絡通路のどこかにルーズな出入口があったことになり、少し疑問が残る。

 ホームの裏手は、国鉄駅舎との間に国鉄社線共用のトイレがあったことがわかっている。図中の建物3〜5は昭和49年撮影の航空写真でも確認できる他、建物2は前述のDVDにも写っているが、これらは駅関係の施設なのかどうかはよくわからない。また、建物1はやはりDVDの映像で確認できるが、単に撮影角度の問題で、これが共用便所の建物とも考えられる。なお、元車掌の方の証言によると「昭和20年代初期はホーム?が国鉄線路から若干離れた場所にあったような気がする」とのことで、開業当初は駅の構造が全く違っていた可能性もある。
 右は、各種資料を基にして、現況の写真位置に当時の日鉱幸崎駅ホームを合成再現したもの。検討の結果、画像の手前に写っている跨線通路は当時のものではなく、左の国鉄1・2番線ホームもかなり大分方に延長されている可能性が高い。
 なお、本駅の正式名称については「日鉱幸崎」ではなく単に「幸崎」だったと証言する方もおり、目下調査中。(5.佐賀関鉄道の乗車券類 (1) 普通乗車券 の注)*1参照)

 当駅を出発した列車は間もなく国鉄貨物ホームの直前で右にカーブしていくが、すぐにS字状に進路を修正し、直進方向に"硫酸線"を分岐した後、再び大きく東向きに右折する経路をとる。軌間が異なるため、当然のことながら社線レールと国鉄線レールの接続点は存在しない。国鉄貨物ホームの大分寄りに製錬所副製品の濃硫酸積み替え施設があり、本鉄道廃止後もトラック輸送による専用列車への積み替え作業は継続されていたようだが、それも平成8年頃には廃止され、現在JR幸崎駅の貨物取扱はほとんどなく、駅舎も平成21年に簡素なものに造り換えられて、常駐する駅員(業務委託)も1人だけになった模様である。また、元車掌氏の話によると本鉄道の気動車はすべて"両運転台"で、単独運行ならば問題はないが、「気動車+客車(無動力)」の組み合わせが基本編成となる場合は、終着駅において列車の入れ換え(転向)が必要となる。文献によれば、やはり"転向線"(スイッチバック式の"引き上げ線"か?)がどこかにあった模様だが、本線との分岐点や構造など詳しいことはよくわからない。なお、平成11年頃まで当駅の跡地には「佐賀関製錬所 幸崎駅専用線」の看板が掲げられていたらしいが、現在は上記の設備や建物の大半が取り壊されて、新興の住宅地に変貌しつつある。
 右は、かつて幸崎駅の貨物側線に留置されていた日本鉱業所有の濃硫酸専用タンク車(タキ5750形・昭和61年撮影)。本鉄道は他にナロー用のタンク車(ケタム5など)も所有していたが、詳しくは専門誌のほうを参照されたい。



左: 現在のJR幸崎駅。中央右寄りの白い駅施設辺りが"日鉱幸崎駅ホーム"の位置と推定できる。

左下: 右手のコンクリート部分辺りが当時の"連絡通路"に相当すると考えられる。

右下: 現在もはっきりと原形を留める国鉄貨物ホーム跡(中央奥)。"JR貨物"の所有と思われるが、貨物側線のレールは赤く錆付いており、最近は使用された形跡もない。


(2) 日鉱本幸崎駅

 当駅は日鉱幸崎を出発して間もなく、線路が東向きの大きいカーブから直線に入る付近にあり、沿線で唯一はっきり当時のものとわかるホームがそのまま残っていることから、平成22年1月に筆者が実際に現地へ赴き、詳細に実測を行った(下図)。ホーム長は約25m(気動車2輌分)、ホーム幅は約3〜3.5mで、根拠はないが、恐らく他の停留所も全てこの規格で建設されたものと推測したい。ほぼ中央に待合所の痕跡(コンクリートの基礎)がある他、今回、線路反対側で小さな石柱を2ヶ所発見した。太字「○」の記号が深く掘り込まれており、すぐに日本鉱業の社章「蛇の目(ジャノメ)」ではないかと思ったが、後日文献を確認したところ案の定、日鉱社用地の"境界杭"であることが判明し、他に日鉱本幸崎〜日鉱大平間にも同様の石杭が残っていることもわかった。

 本駅は"神崎"(集落名表記で読みはやはり「こうざき」)地区内にある比較的新しい停留所だが、当初から眼前にある"神崎中学校"の通学最寄り駅としての性格が強かったという。(5.佐賀関鉄道の乗車券類 (2) 定期乗車券及び回数乗車券 の項を参照のこと) 本鉄道の駅では唯一、線路の(下り向き)左側にホームがあり、通学客はその都度"踏切"を渡らなければならない不便を考えると、建設当時は反対側に民家などが密集していた可能性が高い。なお、この周辺では現在、道路整備が急ピッチで進んでおり、"中洲"状に取り残された区域にあるこのホーム跡もいずれ撤去される恐れがあるため、興味のある方は早めの訪問をお奨めする。



上: 実測図を基に当時の日鉱本幸崎駅の様子を再現したもの。作図してみてわかったが、"通学客"が多いためか当駅の待合所(幅7m)はかなり大きめで、他の停留所の場合はもう少し小さかったのではないかと思われる。

左: 現在の日鉱本幸崎駅と佐賀関鉄道路盤跡。すぐ左横に今は舗装されたバス道が走っており、今日まで奇跡的に撤去を免れてきた感がある。

左下: ホーム上のコンクリート基礎部分が当時の"待合所"跡と考えられる。右上に"神崎中学校"の体育館が見える。

右下: 右下隅に写っているのが、最近新しく完成した国道197号線バイパス。周囲は再開発が進んでいる。


(3) 日鉱大平駅

 日鉱本幸崎を出ると、線路は暫く山沿いの田園地帯を走りながら徐々に海へ近づいてゆくが、大平付近は山が海岸線にかなり迫っているため、国道197号線沿いは今も民家が非常に少なく、大平の集落は少し小高い丘陵地に家々が点在している。したがって、この区間では線路もやや国道から離れた高所を通っており、沿線では最も眺望がよく、前記「よみがえる総天然色の列車たち1」DVDにもここを走る列車の姿が映像に収められている。現在でも短い"拱橋"も含めて線路跡は生活道路として使用されており、往時の雰囲気をよく残している。

 日鉱大平駅はこの区間の丁度中間辺り(現在のファミレス「ジョイフル」佐賀関店の手前)にあった停留所で、今回、地元住民に聞き取り調査を行い、正確な位置を確定することができた。ホーム跡は実測で全長約20m、線路側のコンクリート縁壁が当時のまま残っており、大志生木寄りの約12mは廃線後、防火水槽を造るために削り取られたとのことであった。また、文献によると本駅は昭和23年に開業後、わずか5年でこの場所に移転されたことになっており、旧・日鉱大平駅について地元民数人に聞いた範囲では「そういえば昔、この場所(新・日鉱大平駅)より少し"大志生木寄り"に駅があった」と云う方はおられたが、なにぶん年代が古いため、それ以上の詳しい情報は得られなかった。"なぜ移転されたのか"なども含めて、今後も調査を続けていく予定。



左: 現在の日鉱大平駅と佐賀関鉄道路盤跡。左隅に国道へ降りてゆく細い坂道と海(別府湾)が見える。

左下: 中央のコンクリート製のステップ(手前の約8m)が当時の"日鉱大平駅ホーム"跡。先に「"停留所"のホーム長は各駅共に25m程度」と推測したが、その場合"3輌以上(多客時)"の列車編成では明らかに不足するため、今後の研究の課題としたい。

右下: この辺りは大平集落の中心部と思われるが、民家はそれほど多くはないように見える。


(4) 日鉱大志生木駅

 日鉱大平を出ると、線路は徐々に高度を下げて現在の「道の駅 佐賀関」の手前で国道197号線を横断し、今度は海岸線にぴったり張り付くように進んでゆく。そして、大志生木集落の直前で国道を再度横切り、内陸寄りに数百m進んだ場所に日鉱大志生木駅があった。本駅は沿線で唯一の列車交換駅で、当然のことながら駅員が常駐して、タブレットの交換や荷物の取扱いの他、出札口もあって硬券を含めた乗車券類の発売も行ったことがわかっている。中間駅では最も規模が大きく、駅舎もかなり立派で駅員も常時2名以上(?)が交替で勤務していたというが、その割にホームや駅舎の配置がなかなかはっきりせず、今回の聞き取り調査でも"相対式"ホームだったという人と"島式"ホームだったという人が相半ばして、当初はかなり困惑した。しかし、その後の文献調査で「島式ホーム」であったことがはっきりし、さらに元車掌氏の証言により大体の構内配置も判明した(下図)。(但し、駅舎内部の構造は依然として不明。)

 「鉄道ピクトリアル」昭和39年7月臨時増刊号に掲載された堀江光雄氏撮影の"日鉱大志生木駅に進入する上り列車"の写真を見ると、右手前に小さな車道と遮断機のない踏切が写っており、これが現在の"大志生木幼稚園"のすぐ横(東側)を通っている道路に相当すると考えられるので、駅舎はやはり幼稚園の建物付近にあったとみてよさそうである。また、同写真の佐賀関方(左上)には鉄道用の"腕木式信号機"(腕の長さから上りの「場内信号機」と考えられる)も写っていることから、他に3つの信号機(「場内」1・「出発」2)もあった可能性が高い(上図)。但し、ホームの長さと幅に関しては、図の雰囲気よりもかなり規模が大きかったことは間違いないが、具体的な数値まではよくわからなかった。本駅は、やや幸崎寄りにあった"日鉱大志生木社宅"(最盛期は400世帯・住民約1700人)の最寄り駅であり、早朝から深夜まで通勤通学客でかなり乗降量が多かったにもかかわらず、ホームや駅舎を撮った写真を全く見掛けないのは残念でならない。
 なお、古い専門誌を見ると当駅は「おおじうき」と振り仮名されているものが目立つが、正しくは「おおじゅうき」(隣駅も「こじゅうき」)であり、近隣には「佐志生(さしう)」「志生場(しうば)」など似た地名も多く、恐らく同一の語源に拠るものと思われるが、具体的に何を意味するのかは今のところ不明。かつてこの辺りは「志生木村」(明治11年)という独立行政単位であったが、「大志生木村」(明治23年)「神崎村」(明治40年・佐賀関鉄道開通時)を経て昭和30年に佐賀関町に合併し、現在はさらに大分市に編入されている。



※ その後の調査で、廃線直前に下りの踏切付近から日鉱大志生木駅のホームと駅舎の一部を撮った写真が存在することがわかりました。(左: 佐賀関製錬所第一大煙突 記念誌「関の大煙突」掲載) 駅の構造はほぼ筆者の取材通りでしたが、意外にも改札口(木製のラッチ)がホーム上にあり、「お願い 乗車券をおもちでない方は列車に乗る前に駅の窓口でお求めください 駅長」と書かれた看板も写っています。ホーム(土盛り)は軽便仕様のためやや低めですが、予想よりも幅は広く(推定6m以上)、待合所も扉付きのかなり立派なものだったようです。しかし、残年ながらこの写真ではホーム長や駅名標の位置、駅舎内の様子までは確認できませんでした。



左: 現在の日鉱大志生木駅と佐賀関鉄道路盤跡。中央やや右寄りが"大志生木幼稚園"の建物。

左下: 佐賀関町立を経て現在は大分市立となっており、建物はかなり古いが、さすがに駅舎を修築したものではない模様。

右下: かつて日鉱大志生木社宅内にあった"こうばいかい"の建物。佐賀関製錬所は合理化により従業員を大幅に削減した結果、平成に入った頃からは大志生木社宅に空室が目立つようになり、現在では10棟程もあったアパート群はすべて撤去されて、すぐ横にある"大志生木小学校"の児童も激減したという。製錬所社員家族向けの小型マーケット「こうばいかい(購買会・理事長は佐賀関製錬所総務課長兼務)」志生木店も"ゴーストタウン"の中で細々と営業を続けていたが、ついに数年前閉店となった。社宅の跡地は今のところ製錬所総務課が管理しているが、近々、辛幸地区にある特別養護老人ホームが移転してくる予定だという。


 日鉱大志生木を出ると、線路は間もなく志生木川に架かる"大志生木橋"を渡って、全長106mの"大志生木トンネル"に入っていく。



左上: かつては軽便鉄道時代の路盤や欄干がそのまま残っていた"大志生木橋"(昭和61年撮影)。最近になってコンクリート製の丈夫な橋に架け換えられた模様。橋の左横に見える水道管は廃線跡全線に渡って敷設されているという。中央遠方に日鉱大志生木社宅のアパート群、左に小さく"大志生木小学校"の建物も見える。

右上: 大志生木橋の手前から"大志生木トンネル"を望む(昭和61年撮影)。この区間は今も通行可能だが、柵があって自動車は進入できない。

左: 大志生木トンネルの内部から日鉱大志生木駅方を望む(平成22年撮影)。トンネルの幅は実測で約3.5m、全長に渡って上り向き左側に幅45cmのステップがあり、これはかつての"保線用通路"もしくは緊急時の"退避用通路"の名残りとも思われるが全く確証はない。(かなり近道になるので、当時は禁止されているにもかかわらず徒歩でトンネルを抜ける地元民が結構いたのではないかと推測される。"金山トンネル"では隧道上に階段式の人道が造られており、当初からこのようなステップはなかった模様。)

※ その後、佐賀関出身のK氏(60代)よりご丁寧なメールを頂戴し、当時の"大志生木トンネル"内には上記のような「ステップ」はなかったとのことでした。「そもそも、このような"ステップ"があると軽便そのものが通行できないのでは?」というご指摘でしたが、確かに、車両の幅(2m強)と高さ(3m強)を考慮すると"差し引き"したトンネル幅(3m)ではあまりにも余裕がなく、筆者の推理には無理があるようです。また、現在のトンネル内のコンクリート壁も当時のものではなく、明らかに補強工事がなされているとのことでした。



左: 平成6年1月竣工の"新・大志生木橋"。("京島写真館々長"様ご提供。)

※ "京島写真館々長"様は今回、佐賀関鉄道跡をなんと幸崎駅から佐賀関まで徒歩で踏破し、近々訪問記を執筆されるそうです。是非、氏のブログ「館長のスタフ」(http://ameblo.jp/kan3135/)も併せてご覧下さい。


(5) 日鉱小志生木駅

 大志生木トンネルを抜けると、左手に美しい小志生木浜が眼前一杯に広がる。日鉱小志生木駅はその入り江の中央付近に設けられた停留所で、本鉄道開通時にはなかった。現在の大分バス・小志生木停留所付近にあったのは間違いないが、当時は今よりもかなり海岸線が内陸寄りにあったため、197号線の旧道は現在の(自動販売機が並んでいる)商店前の小道に相当し、本駅ホームも上りバス停横の緑地帯位置にあったと推定される。実際、道路整備が行われるまでは、この場所に日鉱本幸崎駅同様のプラットホームが残っていたという情報もある。また、このホームについては、隣の辛幸駅ホームと共に「国道からの高低差がほとんどなく、ノーステップで出入りできた」ことが、元車掌氏の証言で判明している。

 当駅については昭和34年に撮影された大変見事な写真(左下:佐賀関製錬所作製の配布用カレンダー収載)が残されており、いかに砂浜が線路のすぐ手前まで迫っていたかがよくわかる。ほぼ同一の構図で現在の様子を撮影したのが右下の写真で、実証の結果、恐らく焦点距離35mm程度のレンジファインダー機で撮られたものとわかった。写真のように、当時は大志生木・小志生木の海岸線一帯に松の木が林立していたが、現在は極一部を除いて(?)ほぼ姿を消してしまった。



左: 現在の日鉱小志生木駅跡。平成22年1月現在、小志生木地区では佐賀関方に"志生木トンネル"(右端)の建設が進んでおり、筆者が同地を訪れた際も件の緑地帯が取り壊されようとしていた。近い将来、この辺りの外観がかなり変化してしまう可能性が高いので、写真に収めたい方は早めの訪問をお奨めする。 


 日鉱小志生木を出ると、線路は間もなく全長151mの"小志生木トンネル"に入っていく。沿線で最も長いトンネルで、確か昭和末期頃(?)まではまだ国道から開口部を確認できたが、「土砂崩れを起こして危険」とか「トンネル内に当時の鉄道部材が残されているという噂が立ち、進入を試みる者が出て危険」などの理由から、コンクリートで完全に塞がれてしまったという。現在は開口部の位置すら判然としない。



左: 現在は完全に入口を封鎖されている"小志生木トンネル"。("京島写真館々長"様ご提供。)

※ 氏のコメント「茂みの辺りが小志生木トンネル入り口です。当時は木で塞がれているのが見えました。冬枯れになればまた見えるかもしれません。ここから先は関係者以外立ち入り禁止です。」



左上: 辛幸側の線路跡から間もなく開通予定の国道"志生木トンネル"(中央)方を望む(平成22年撮影)。

右上: 日鉱小志生木―日鉱辛幸間の線路跡は現在でもなんとか通行可能だが、小志生木トンネルが閉鎖されているために生活道路やサイクリングロードとして利用されることもなく、いずれは朽ちてしまう可能性が高い。

左: 日鉱小志生木―日鉱辛幸間の海岸線を走る列車(ケコキハ512+ホハフ5)の想像図。


(6) 日鉱辛幸駅

 小志生木トンネルを抜けると線路は再び海岸線を通り、もう1つ山を越した所が辛幸の集落で、日鉱辛幸駅は現在の大分バス・辛幸停留所(下り)付近にあったと考えられる。

 当駅についても昭和34年に撮影された写真が残されており、現況と比較したのが下の2枚。同じ構図で撮ろうとすると辛幸集落へ入る脇道がどうしても隠れてしまうので、舗装整備の際に若干道路の起伏が変えられたのではないかと推測される。現在もタクシー会社の他にはほとんど何もない寂しい場所で、しかも海岸線ぎりぎりのこんな所に本当に駅があったのだろうかと疑いたくなる。本駅については「線路の海側にホームがあった」と証言する方がおられて、実のところ当ページを執筆する直前までは上と逆向きの図を用意していたのだが、元車掌氏の証言により急遽書き直した経緯がある。列車が重なっていなければ、左下の写真にホームが写っていた可能性は高く、少し悔やまれる。なお、辛幸地区でも国道バイパス"佐賀関トンネル"の完成に伴い、将来的にこの旧道は廃れてしまうのが確実な(どうなるかわからない)ため、くどいようだが早めの訪問をお奨めする。



左: 当時の日鉱辛幸駅駅名標。日鉱辛幸駅の古写真は左上とこの2枚しかなく、しかも比較的低位置にあるはずの駅名標の隙間から"空"が写っていることが「線路の海側にホームがあった」と誤認する原因となった。しかし、その後本鉄道の駅名標は基本的に「表も裏も同様に表記する仕様である」ことがわかったので、この写真は道路側(裏側)から撮影されたものと考えれば矛盾はない。

左下: バス停留所の横に小さな展望台があり、カップル向けに「"辛"さを乗り越えて"幸"せを手に入れましょう」という祈りのプレート("さがのせき潮騒物語")が掲げられている。

右下: 現在、線路跡は「さがのせきサイクリングロード」と名付けられ、古宮まできれいに舗装されて絶好のお散歩・ジョギングコースとなっている。


 日鉱辛幸を出ると、やがて国道は山道に入るが、線路のほうは海岸線に張り付いたまま進むため、両者はかなりの高低差となる。左下の写真は昭和34年に撮影されたもので、右下はほぼ同じ位置から撮った現在の様子。画角が少し違うのが気になるが、中央に特徴的な大岩が写っていることから、今の大分バス・光明園前バス停から200m程佐賀関寄りの国道上(?)から撮られたものと推定できる。この区間は沿線でも最も高潮の影響を受けやすかったらしく、関係者の話によると台風でなくとも冬場の高波でしばしば車輌が水を被ったという。


(7) 日鉱古宮駅

 この後、間もなく線路は全長146mの"古宮トンネル"に入る。トンネルの出口はもう古宮の集落で、左手に砂浜(現在は"国道九四フェリーのりば")、右手に"佐賀関中学校"を見て、ほどなく日鉱古宮駅に到着する。当時は海岸線がかなり内陸方に迫っており、現在の国道197号線(新線)辺りからフェリーのりばにかけてはほぼ海の中だった。現在、国道の右側にかろうじて線路跡の細道は確認できるが、古宮トンネルの開口部は既に閉鎖されており、また駅の位置も今一つはっきりしなかったので、通行中の地元住民の方に聞き取り調査を行い、ようやく中学校真横の四つ角付近と判明した。現在の自転車置き場付近にホーム、さらに佐賀関寄りに駅舎があったのではないかと思われるが、細かい位置については明確ではなく、今後も調査を続けてゆく予定。


※ その後の調査で、昭和40年代初期(廃線後間もなく)に撮影されたとみられる古宮付近の航空写真(出所不明)が存在することがわかり、知人にお願いして拝見させて頂いたところ、件の国土交通省公開のものよりかなり解像度が高く、日鉱古宮駅のホームと駅舎がばっちり写っていました。写真を掲載できないのが非常に残念ですが、駅の位置や構造はほぼ筆者の取材通りで、@中間駅としては比較的ホームが長いこと、A駅舎よりホーム上の待合所のほうが大きいこと、B想像以上に海岸線が迫っていること、C踏切の手前に道路と並行して小川があったこと などが確認できました。また、駅の幸崎寄りには佐賀関中学校の裏門があり、ホームの幸崎方にも"スロープ"が認められることから、旅客は必ずしも改札口(日鉱佐賀関方)を通る必要はなかったものと思われます。

 本駅は"日鉱古宮社宅"の最寄り駅で、交換施設はないものの比較的乗降量が多かったためか、非常に小さいながら駅舎があり、1名の駅員が常駐して出札業務等を行ったこともわかっている。関係者の話によると駅舎の内部はわずか数畳程しかなく、業務用の小さな机と壁掛け電話の他は大した設備はなかったという。



左: 佐賀関製錬所第一大煙突 記念誌「関の大煙突」掲載の日鉱古宮駅舎。正面に小さな出札口が確認できる。また、旅客は駅舎内を通らないとホームに入れない構造になっていたこともわかる。



左: 中央右寄りの中学校の自転車置き場付近が"日鉱古宮駅ホーム"跡と推定される。遠方に"日鉱古宮社宅"のアパート群が見える。

左下: 線路を横切るこの道路は古い航空写真にもはっきりと写っている。

右下: 佐賀関製錬所が配布した"佐賀関鉄道廃止記念絵葉書"の表紙に、日鉱古宮―日鉱金山間の当時の街並みが写し出されている。ただ、かなり解像度が低いため、日鉱古宮駅や周辺の踏切などの様子がよくわからないのが残念。


 日鉱辛幸を出ると線路は間もなくゆっくりと左にカーブし、右手に"日鉱古宮社宅"を見て、全長108mの"金山トンネル"に入る。左下はやはり昭和34年に金山トンネルの上から日鉱古宮駅方を撮影したものらしく、右手前にある"こうばいかい"古宮店は現在も営業中。(決して"盛業"とは云えないようだが...。) 今回、これと全く同じ構図で写真を撮ろうと考えていたのだが、金山トンネルの上を通る山道はほとんど人通りがないためか、現在は雑草が生い茂っており、とても近づける状態ではなかった。右下は仕方なくトンネルの手前から撮影した対比写真。



左: 最近、金山トンネル手前の海岸へ移転した旧佐賀関製錬所病院。

左下: 現在の"金山トンネル"(古宮側開口部)。地元住民の生活道路の一部として今も利用されているが、やはり自動車は進入禁止になっている。

右下: 同金山側開口部。左横にトンネル上を越える山道への階段が見えるが、現在はほとんど使われていない模様。


(8) 日鉱金山駅

 金山トンネルを抜けると、すぐ右手に当時は"佐賀関製錬所病院"があった。(その後、"佐賀関町立病院"となり、民営化を経て平成17年頃古宮方の海岸へ移転。) 関係者の話によると日鉱金山駅はトンネルを出てすぐの所にあったというので、下図のような配置を推定してみたが、詳細な位置については今後も調査を継続してゆく予定。

 古い文献を見ると、当駅の位置が地図上でもっと佐賀関寄りに書かれているものが多いが、日鉱古宮―日鉱金山間がわずか400m強であること、製錬所病院関係者・患者の便宜のために設置された停留所(沿線で最も新しい)であることを考えると、やはりこの辺りが至当なように思われる。なお、当時は道路が病院前まで迂回していたため、トンネルの出口付近に踏切があったことは確実で、晩年には"遮断機"があったこともわかっている。

※ "佐賀関出身のK氏(60代)"によると、当駅の位置はやはり「道路をはさんで、製錬所病院の斜め前」辺り、待合室は「四角い箱のような木造で、大人が5〜6人も入ると一杯になるくらいの広さ。"椅子"はなく、壁に直接棚のように固定された"腰かけ"で、(よく地方のバスや駅の待合などにある)"コの字形"にベンチが取り付けられていた」そうです。また、廃線後、金山駅の待合室は取り壊されたものの、ホームは花壇として使われていたこともわかりました。(ちなみに、小志生木や辛幸のように道路が直接ホームに接している駅では、"出入口を反転"して軽便の待合室がそのままバスの待合所として使われていたのではないか、とのことでした。) 貴重なお話を本当にありがとうございました。



左: 佐賀関製錬所第一大煙突 記念誌「関の大煙突」掲載の日鉱金山駅。ホームの位置や構造はほぼ筆者の推定通りであった。



左: "金山トンネル"の出口から撮影した現在の日鉱金山駅と線路跡。旧道は手前で線路を横切り、今は更地となっている製錬所病院の玄関前をカーブしていた。筆者は、線路と旧道に挟まれたこの"中洲"状の区域(中央左寄りに写っている柵の向こう側辺り)にホームがあったのではないかと推定している。

左下: 佐賀関方から日鉱金山駅跡を望む。"中洲"の大部分は現在駐車場となっている。

右下: 製錬所病院の跡地から海岸方(日鉱金山駅)を望む。中央に旧"佐賀関警察署"(県警の合理化で平成17年"大分東警察署佐賀関幹部交番"に降格)、遠くに佐賀関製錬所名物の大煙突が見える。


(9) 日鉱佐賀関駅

 日鉱金山を出ると再び線路は海岸に近づき、左手に漁港、右手に佐賀関の街並みを見ながら、わずか700mほどで終点の日鉱佐賀関駅に到着する。ちなみに、この駅舎位置は航空写真や後のバスセンターの立地からほぼ確定しているが、古い文献や地図などを見ると、なぜかそれよりかなり製錬所構内寄りに記載されていることが多く、"キロ程9.1km"という数字は「廃線時の駅舎やホーム位置を基準にしていない」可能性が高い。本駅については、始点の日鉱幸崎駅と同様に比較的たくさんの写真が残されており、駅舎やホームの位置だけでなく車庫や引込線、構内に続く貨物線の配置なども概ね判明している。ただ、惜しむらくは肝心の駅舎やホームを接写した写真がなく、特に駅舎内部の様子が全くわからなかったが、今回、関係者の証言により大まかな構造も確認できた(下図)。

 廃線後、この駅舎はバスターミナル("国鉄バス佐賀関駅"・民営化後は"JRバス佐賀関駅")となり、筆者の記憶では確か出札口が"製錬所構内寄り"にあったと思うが、日鉱佐賀関駅当時はチッキ窓口と共に逆向き("幸崎寄り")だったことが明らかになった。駅事務室は相当に広いスペースで、運輸課本体の事務所は製錬所構内の別棟にあったようだが、通常の駅務の他、車掌による車内乗車券の売上計算など雑多な業務がここで行われたという。また、事務室の外れに"宿直施設"もあったというが、詳しい位置については目下調査中。下は昭和37〜38年頃の事務室の様子を撮影した貴重な写真(笹葉弘子氏所蔵)。

下: 佐賀関製錬所第一大煙突 記念誌「関の大煙突」掲載の日鉱佐賀関駅の駅舎正面及びホームを撮った写真。

 左下は廃線後に佐賀関製錬所が作製・配布した"佐賀関鉄道廃止記念絵葉書"の1枚で、手前に写っている車庫へのポイント"切換てこ"は事務室内からも操作することができたらしく、車輌の連結や切り離し作業も女性の車掌が行っていたという。なお、この晩年の駅舎は昭和30年代に入ってから建て直されたもので、以前は木造の駅舎であったことが古写真から判明している。また、平成13年には"JRバス佐賀関駅"が廃止となり、その後ターミナルの建物も撤去されて、現在は製錬所総務課管理の"社員専用駐車場"に生まれ変わっている。(右下:奥の中央右寄りに写っている白い建物が"こうばいかい"上浦店で、かつての"機関庫"付近と推定されている。)



左: 同じく製錬所が作製・配布した"佐賀関鉄道廃止記念絵葉書"の1枚で、"日鉱佐賀関駅を発車する旅客輸送開始当時の列車"(昭和20年代初め)。"客貨混合列車"は極初期の頃のみで、昭和26年からは蒸気機関車に代わってディーゼルカー(気動車)が旅客輸送の主役となった。


4.佐賀関鉄道の車輌

 前述のように車輌については、先学者によりほとんどすべての在籍車輌ごとに驚くほど詳細なデータ(製造年月・製造工場・竣工年月日・寸法重量定員・前所有者・廃車年月・改造年月など)が残されており、これらは各種文献によく掲載されているので、ここでは極簡単に触れるに留める。

(1) 機関車

 当初は、客貨共にすべて小型のSL(延べ6輌・すべて他社からの転籍)による牽引運転が行われていたが、次第に内燃機関車及び気動車に切り換えられ、昭和23〜31年にかけて廃車となった。内燃機関車は、昭和28年新造のディーゼル機関車"DB1"と昭和31年新造のガソリン機関車"GB1"があり、"DB1"は貨物列車の牽引と旅客列車(気動車+客車2輌以上)の補機として、"GB1"のほうは専ら構内専用線で使用されたという。

(2) 気動車

 最初客車として転入された"カホ1"と"カホ2"を昭和26年になって気動車に改造した"ケコキハ510"と"ケコキハ511"、及び昭和26年新造の"ケコキハ512"(下)が在籍した。晩年に撮られた写真でよく見掛ける先頭車はこれら3輌のうちのどれかで、前面に"バスケット"(自転車などを置くための荷物台)が付いたもの(側面9枚窓)が"ケコキハ510/511"、前面下部に特徴的な"保護網(救助網)"が付いたもの(側面8枚窓)が"ケコキハ512"と考えてよい。元車掌氏によると、いずれも"両運転台"式で必要に応じて運転士が前後へ移動していたという。なお、廃線後"ケコキハ512"は解体されずに"佐賀関小学校"に寄贈されたらしいが、昭和43年頃に同校入学の方に尋ねたところ「(ディーゼルカーを見た)記憶がない」というので、これもかなり早い段階で廃棄されてしまった可能性が高い。



上/左: 他社からの"転籍組"が多かった中で、気動車では唯一自社発注で新造された"ケコキハ512"形ディーゼルカー。

[昭和26年7月"若松車輌"製]
長さ:10800mm
高さ:3092mm
幅:2091mm
自重:12.0t
定員:60[座席30]人

 "ケ"は"軽便用"、"キ"は"気動車"、"ハ"は「イロハ」の"ハ"で"3等車"を表すのはわかるが、"コ"の意味はよくわからない。前面下部に付けられた人身事故防止用(?)の保護網が特徴的で、確かに路面電車ではよく見掛ける仕様。また、正面の"V字形"模様も本車輌の特徴だが、単純な"上下二分"塗装で写っている古写真も存在するため、新造時から車輌の前後で模様が違っていた可能性も考えられる。なお、当社所有の車輌にはすべて側面に"ジャノメ"マークが施されているが、当時の写真をつぶさに観察すると、この車輌だけは塗装(白)ではなく、銀色?のプレート製と思われる。

※ 各種資料から筆者が作図。但し、筆者は車輌は専門外ですので、ディテール及び配色は不正確だったり省略したりしています。(特に車体底部の構造がよくわかりません。ご指摘があれば修正致しますので、メールを頂ければ幸いです。)

※ その後、"佐賀関出身のK氏(60代)"よりメールを頂き、"ケコキハ"の"コ"は「重量記号」ではないかというご指摘がありました。詳しく調べてみますと、"ケコキハ510"と"ケコキハ511"は昭和5年に"カホ1"及び"カホ2"の形式番号で"大隅鉄道"の半鋼製ボギー式ガソリンカーとして製造されましたが、昭和14年に機関部を撤去して"ケコハ510"及び"ケコハ511"客車(鉄道省所有)となっており、したがって、この"コ"は国鉄ボギー式客車の"コ"級(重量22.5t未満)を指したものと考えてよさそうです。国鉄の命名規則では"コ"はボギー式客車専用の重量記号ですが、日本鉱業に譲渡されて再び機関が搭載された後もそのまま旧記号を継承したと考えるのが自然で、また"ケコキハ512"が新造気動車であるにもかかわらず"コ"が付されているのは、"ケコキハ510"及び"ケコキハ511"との名称上のバランスを取ったものと思われます。



左: 気動車の内部を撮影した貴重な写真(笹葉弘子氏所蔵)。前面が2枚窓で、しかも左窓が上下仕切りのない1枚ガラスであることから、"ケコキハ510"または"ケコキハ511"のいずれかではないかと推定される。座席は対向式のロングシートタイプで、これまた路面電車の仕様とよく似ている。また、車内灯に"蛍光灯"(写真:天井部)を使用している点は、当時の軽便鉄道としては画期的であったという。

(3) 客車

 当初は旧鉄道省から譲り受けた"ケコハ"(木造車)6輌を使用していたが、老朽化のため、昭和27〜31年の間に順次、住友鉱山別子鉄道から移籍の"ホハフ"(半鋼製ボギー車)5輌に交換された。無動力のため、当然のことながら機関車や気動車による牽引が必要だった。

(4) 貨車

 当初は製錬所物資の陸運シフトを想定して"ケト""ケチ"など大量の無蓋貨車(70輌以上)を保有していたが、老朽化のため漸減し、若干の新規導入もあった模様だが、昭和35年3月に貨物輸送を廃止した結果、廃線時まで残ったのは"ケチ10"と"ケチ11"(無蓋貨車)、"ケワフ30"(有蓋緩急車)、"ケタム5"(タンク車)の4輌だけだった。"ケタム"は濃硫酸専用の小型タンク車で、軽便鉄道が保有しているケースは稀であったという。


[ウィリソン(Willison)式簡易自動連結器]

 当初、本鉄道の車輌連結には当時軽便鉄道ではポピュラーであった"ピンリンク式"が採用されていたが、操作が複雑なうえに重量もあり、女性の車掌に操作させるには難があったため、途中から"ウィリソン式"の自動連結器(日立製作所製)に変更されたという。(名称に関しては"ウィルソン"という表記も見られるが、"Willison"の綴りから考えると"ウィリソン"のほうが妥当なように思われる。) この連結器の特長は軽量で操作が簡便なことにあったというが、各種文献を見てもどういう構造になっているのかが今ひとつわからず、ロシアでは今でも標準的に採用されているという情報はあるものの、国内では他に"越後交通栃尾線"(廃止)や工事用トロッコなどに使われていたくらいで、かなり珍しい連結装置だったらしい。普通の自連と違って「"ナックル"と呼ばれる先端部の"爪"が回転しない独自の機構を持ち、解除は横に付いているレバーを持ち上げる仕組みだった」ことはわかっており、"ナックルが回転せずに一体どうやって自動連結できるのか"前々から不思議に思っていたが、今回筆者なりの思考錯誤の末、左図のような構造を推定してみた。掌部の内側にボタン様の"爪"があるのがミソで、「連結時にはこの爪が押されて変形することによって装置同士が陥入し、連結が完了して爪がバネの力で復元すると、牽引力が掛かってもナックル側に力が掛かるので外れない」仕組みになっているのではないかと思う。(但し、本鉄道で使用されていたウィリソン式連結器の詳細な形状や解除レバーの構造などは不明。) なお、この連結器は本鉄道においては主に旅客列車用で、機関車と貨車の連結には従来通り"ピンリンク式"のものが使われていたという。


(5) 編成と運行

 貨物列車については、前述の通り昭和35年で打ち切られたこともあり、編成・運行など詳しいことはよくわからなかった。以下、晩年の旅客列車に限って述べると、編成は「気動車+客車(無動力)」の2輌編成が基本設定で、朝夕などの多客時のみ後ろに客車または気動車をもう1輌増結し、客車が2輌になる場合はさらにディーゼル機関車("DB1")も連結して馬力を補った。運行は、路線のほぼ中間にある日鉱大志生木駅で列車交換を行う2区間"通票閉塞式"(タブレットは未確認)で、便数は最も多かった昭和35年頃が16往復(下)、その他日鉱大志生木を発着駅とする区間便も8本設定されていた。特に製錬所の深夜勤務に配慮して、日鉱大志生木―日鉱佐賀関間には夜22時を過ぎる列車が4本もあり、軽便鉄道としてはかなり破格の"産業線"ならではの過密ダイヤだった。運賃・便数・所要時間のどれをとっても並行するバス路線より勝っていたのは皮肉な話だが、基本的に製錬所従業員(本人のみ)は"無料パス"で乗車できたため、晩年に至るまで輸送密度の割に旅客運賃収入は少なかったという。


5.佐賀関鉄道の乗車券類

 本鉄道の乗車券類については、既に【九州の私鉄入場券に関する考察】3.日本鉱業佐賀関鉄道でも一部触れており、多分に記述が重複するところがあるが、どうかご容赦願いたい。
 前述の通り、本鉄道は数少ない地元住民や旅行者なども利用することはできたものの、製錬所及びその従業者や家族の専用線という性格が強く、しかも関係者(従業員本人)は基本的に乗車無料で専用のパスを交付されたことから、輸送量の割に乗車券自体の需要はあまり多くはなかったと考えられる。しかも、地方鉄道に昇格してからはわずか15年という短い期間で廃止されたことも災いし、現在、切符愛好家などが所蔵している本鉄道の乗車券類は極めて少なく、あまり研究が進んでいないのが現状である。(佐賀関製錬所総務課に問い合わせたところ、"廃札券"なども既に廃棄して残っていないという。) なお、沿線で出札を行っていたのは、製錬所及び社宅に隣接する日鉱大志生木・日鉱古宮・日鉱佐賀関の3駅だけであったことははっきりしている。

(1) 普通乗車券

 最も一般的な自社線内の「常備片道券」は、当初は多分"A型硬券"*3)で、その後"B型硬券"が使用されていたことがわかっており、3駅共実例が確認されている他、国鉄の等級制度改定に合わせて昭和35年7月から旧"3等"が新"2等"に繰り上げられたことに伴い、地紋色が淡赤色から淡青色に変更されたことも判明している。本鉄道の切符はオークションなどでも滅多に見掛けないため、各駅の設備状況を完全に把握することは難しいが、昭和34年4月頃発行の「佐賀関から幸崎ゆき」(下の上段左の運賃変更券)にまだ"旧字体"のA型券が使用されていることから、最も大きい日鉱佐賀関駅ですら自社線内向けの乗車券需要がそれほど多くはなかったことがうかがわれる。また、今まで筆者が確認した範囲では、"小児専用券"は存在するものの、常備券の着駅はなぜか「日鉱佐賀関ゆき」と「幸崎ゆき*1)」ばかりで、需要が極めて少ない中間駅についてはすべて"補充券"(D型硬券)等で対応した可能性も否定できない*2)。その他、本鉄道と国鉄との間には"相互連絡運輸"契約が結ばれていたため、特に需要が多い「大分ゆき」については各駅共"A型常備連絡券"が設備されていたと考えられる(下の上段中央)が、需要の少ない着駅向けにはD型硬券の"補片"が発行された模様(下の下段左)。なお、往復乗車券については今のところ1枚も実例が見つかっていないが、筆者は少なくともC型の"補充往復券"(硬券)があったのではないかと推定している。
 下は当時の貴重な"硬券"の乗車券。(【九州の私鉄入場券に関する考察】から再掲。) これらの切符は現在非常に数が少ないため、オークションなどでは極めて高額で取り引きされている。



※ 画像の無断転載・無断使用は堅くお断りします。

注)
*1 上の上段左の運賃変更券については発駅も単に「佐賀関から」となっている("日鉱"はゴム印で加捺されている)ため、古い様式ということで問題はないが、昭和31年10月に発行された新様式と思われる小児専用券(右)でも、着駅欄が「日鉱幸崎ゆき」ではなく単に「幸崎ゆき」と印字されている点は注目に値する。本鉄道の各駅は頭にすべて「日鉱」が冠せられているが、この券の存在から"日鉱幸崎"だけは国鉄と同じ「(日本鉱業佐賀関鉄道)幸崎駅」が正式駅名であった可能性も考えられる。日鉱幸崎または隣駅の日鉱本幸崎の"駅名標"を撮った写真が存在しないことが悔やまれる。

※ その後、筆者は昭和37年4月(廃止の約1年前)発行の「日鉱佐賀関から幸崎ゆき」(右:大人小児用)を入手しましたが、着駅部分は単に「幸崎ゆき」となっており、やはり「日鉱幸崎ゆき」ではありませんでした。一般に、国鉄接続駅における社線側の駅名については、接続の形態("乗り入れ"かどうか)や駅舎(出改札口)・ホームの位置("共同使用"かどうか)などにより、@国鉄駅と全く同名、A"新"や"社"など1文字を冠して区別、B社名または"電鉄"などを冠して区別 などのパターンを見受けますが、特別明確なルールはなく、筆者が調べた範囲では、"日本鉱業"側が発行したこれらの資料を見る限り、当駅の場合は正式な駅名も「@国鉄駅と全く同名」だった可能性が高いように思われます。にもかかわらず、多くの鉄道誌上で当駅が「日鉱幸崎」と記載されているのは、当時の資料が極端に少ないことに加えて、恐らく「本鉄道では全ての駅名に"日鉱"が冠せられている」という先入観に因るものではないかと想像されます。また、この乗車券の"9191"という券番もかなり大きめの数字で、上記の予想に反し、自社線内の硬券もそこそこ売れていたと考えるほかありません。それにしては、即売会やオークション等で本鉄道の出品物をほとんど見掛けないのが不思議です。

*2 その後の調査で、昭和31年10月発行の「日鉱佐賀関から日鉱大志生木ゆき」や昭和33年1月発行の「日鉱佐賀関から日鉱古宮ゆき」3等B型常備券(硬券)が実在することが判明した。また、某HPには昭和37年10月発行の「日鉱佐賀関から日鉱小志生木ゆき」2等B型常備券も掲載されており、これが本物ならば、少なくとも日鉱佐賀関駅にはすべての中間駅向けに常備券が設備されていた可能性が高い。

*3 さらにその後、突然某オークションで昭和29年2月発行の「日鉱佐賀関から日鉱古宮ゆき」常備式3等A型"半硬券"(小児用)が出品された(平成23年3月)。両端が膨らんだ"綿棒"のような小パターンを斜めにたくさん組み合わせた簡易な地紋様(青っぽい地紋色)で、"菅沼式"ダッチングもあり、裏面は灰色、券番は5桁。(筆者は初めて見るかなり特殊な様式で、なんとか入手してご覧頂きたかったが、なんと3万円を超える値が付き断念。) この発見により、昭和20年代はこのタイプのA型"半硬券"が主体だった可能性が出てきた。

※ その後、"急行かいもん"様より佐賀関鉄道の非常に貴重な"国鉄連絡券"(数種)の画像(下)を送って頂きましたので、氏のご好意により掲載させて頂きます。本当にありがとうございました。いずれも珍品で、筆者も初めて見るものばかりです。まず、「大分ゆき」「別府ゆき」の他に「坂ノ市ゆき」「鶴崎ゆき」などの常備券があったことは意外でした。また、これら国鉄連絡常備券はすべて"A型"と推測していましたが、2等制以後(淡青色地紋)は「通用発売当日限」の券が"自線内"と同じ"B型"(2枚目)に変更された模様です。ちなみに、3枚目は「賀佐関鉄道」と誤印刷された"珍品中の珍品"。「別府ゆき」の小児常備券(4枚目)もかなり珍しいものと思われます。
 

※ 同じく"急行かいもん"様より日鉱古宮駅発行の3等"補充往復券"の実券画像を送って頂きました(右)。"往片"が下向きにダッチングされていることから、推測通りの"C型"硬券であることがわかります。"2等の補往"があったかどうかは、"急行かいもん"様もわからないとのことでした。

 

※ 余談ですが、"急行かいもん"様には、同時に右のような大変不思議な所蔵品の画像も頂戴しました。発行日付(43.-9.22.)と"JNRこくてつ"地紋から国鉄バス(佐賀関線)の乗車券であることはわかりますが、"佐賀関駅発行"であるにもかかわらず、乗車駅(バス停)がなぜか「大志生木から」となっています。これはどう解釈すべきでしょうか。筆者の取材では、日鉱大志生木駅の駅舎は廃線後間もなく取り壊されたようですので、廃線後5年も経た昭和43年時点で旧駅舎やその周辺に"出札所"があったとは考えにくいのですが...。また、印刷通り佐賀関駅で発行されたものとしても、なぜこのような区間(大志生木〜大分)の券を常備しておく必要があるのか、どうして改札鋏が入っているのか、ダッチングが"ゴム印"なのはなぜか、など疑問が残ります。("大志生木海岸"は有名な海水浴場ですので、ひょっとしたら"多客期の臨時券"かとも思いましたが、どうも発行日付(9月下旬)が合いません...。)

※ "佐賀関出身のK氏(60代)"によると、佐賀関鉄道の廃線後暫くの間、"小志生木"バス停留所前の商店で"国鉄バス"(佐賀関線)及び"大分バス"の切符(バス乗車券)が委託販売されていたようです。("大分バス"は"金額式"を連綴した半硬券(?)だったようですが、"国鉄バス"のほうは硬券だったか補充券様の軟券だったか、はっきり覚えていないとのことでした。) 当時は"大志生木"バス停の近くにも商店(酒店?)があったことがわかっておりますので、上記の硬券はその"委託乗車券"と考えることができるかもしれません。しかし、バスの委託発売所でわざわざ"入鋏"までするかどうかは少し疑問で、引き続き調査を続けてゆく予定です。ちなみに、この券の"鋏痕"は国鉄九州4局(門鉄局・熊鉄局・分鉄局・鹿鉄局)管内の規則[あ段="正方形"・い段="五角形"・う段="M字形"・え段="逆U字形"・お段="凸字形"]に合致しており、やはり"佐賀関駅"のものではないことがわかります。

※ その後、上記の国鉄バス乗車券委託発売所の入鋏について、"佐賀関出身のK氏(60代)"より「駅で見るのと同じ入鋏用の鋏が、当時"小志生木"バス停留所前の個人商店にあった」ことを教えて頂きました。("国鉄バス"券に入鋏して発売するためのもの) どうやら上記の券も"大志生木"バス停留所付近の個人商店で発売され、入鋏されたものと考えてよさそうです。かなり意外な発見でした。

※ さらに、"初心者"様より日鉱古宮駅発行の国鉄連絡常備券の画像を送って頂きました(下)。(この度はたくさんの画像を本当にありがとうございました。) 当然のことながら様式的には上記日鉱佐賀関駅発行のものと全く同じで、同様に「坂ノ市ゆき」「鶴崎ゆき」などの常備券もあったとみてよいと思われます。


(2) 定期乗車券及び回数乗車券

 沿線には"佐賀関町立神崎中学校"と"佐賀関町立佐賀関中学校"及び"大分県立佐賀関高校"がある他、大分市内の各高校に通学する学生向けに定期券が発売されていたのは当然であり、今回実例も発見した(左下)。日鉱本幸崎駅は神崎中学校の最寄り駅であり、定期旅客の内、製錬所従業員は定期券を購入する必要がなかったため、この券は日鉱大志生木駅では"最もよく売れた切符"の1つではなかったかと思われる。また、昔佐賀関に住まれていた元車掌氏によると、当時は並行する道路の整備が不十分(未舗装)なうえ、特に冬場は冷たい海風が耐え難く、金山トンネルを越えた佐賀関中学校へ通うためにわざわざ"日鉱佐賀関―日鉱古宮間(わずか1km)"の定期券を購入していたという。
 さらに、回数券も今回実券を確認したので、併せて紹介しておく(右下)。この券は日鉱佐賀関駅発行の比較的初期(昭和29年)のもので、かなり小型のうえになぜか等級表示がなく、物資が欠乏した時代の"鉄道省"様式に近い。確認はしていないが"10券片を1割引き"(225円)で発売したものと推定される。定期券・回数券共に、晩年は様式が変更になった可能性が高いが、今のところ詳細はわかっていない。


(3) 車内乗車券

 出札を行った日鉱大志生木・日鉱古宮・日鉱佐賀関以外の各駅から乗車する旅客及び国鉄(幸崎接続)から本鉄道への乗り換え客を対象に発売されたもので、車掌がその都度該当する区間や運賃などをパンチして1枚を旅客に交付し、1枚を精算用に保管して乗務終了後に売り上げ計算を行い、収金分と照合する仕組みになっていた。本鉄道では「むしろ駅売りの常備硬券よりたくさん売れたのではないか」と思い、元車掌氏にも尋ねてみたが、"1便当たりの売り上げ"など残念ながら詳しいことはよく覚えていないとのことであった。なお、前述の通り国鉄との間には"相互連絡運輸"契約が結ばれていたので、車内でも国鉄への連絡乗車券(軟券の"車内補充券"など)を発売することもできたはずで、実際「大分まで」の需要は結構多かったと思われるが、今のところ実例が見つかっておらず、現在追加調査中。



左: 自社線内専用の車内乗車券。小児運賃は半額だが"1円未満は切り上げ"になるため、「八円・十三円・十八円」の端数欄が設定されている。


(4) その他

 筆者は以前、昭和32年日付の"日鉱佐賀関駅・普通入場券"(B型硬券)を手に入れたが、その後"偽物"とわかり、本鉄道では有人3駅(日鉱大志生木・日鉱古宮・日鉱佐賀関)共に"入場券"の設備はなかったことが判明している。乗降客が多い日鉱佐賀関駅などでは結構需要もありそうだが、例えば3駅のホームで"送迎"を行う場合など、どのようにして改札口から入場したのか、今のところわかっていない。


[佐賀関鉄道各駅の鋏痕]

 幸い各駅共に"入鋏済み"(パンチ入り)の券が見つかっているので、"改札鋏の形状(鋏痕)"もすべて判明している(左)。特に日鉱大志生木駅発行の乗車券は極めて数が少なく、上掲の資料((1)の「日鉱大志生木から日鉱佐賀関ゆき(小)」)は鋏痕を知るうえでも大変貴重な資料となった。


6.その他

[高潮による運休]
 本鉄道の線路は異常なほど?海岸線ぎりぎりに設定されていたため、特に日鉱大平―日鉱古宮間では、冬場の高波などで列車が水を被るのみならず、台風接近の際はしばしば"運休"を余儀なくされた。こういう場合、規則では並行する国鉄バスに依頼して代替輸送することになっていたが、製錬所従業員(自社線では無料)の運賃を別途負担しなければならないため、陸運局にナイショで密かに"トラック運送"したこともあったという。

[臨時列車]
 本鉄道が活躍した昭和30年代は日本経済の高度成長期に当たり、日鉱佐賀関駅などでは"集団就職"のため、しばしば多くの人で"ごった返した"という。当時は学校の"修学旅行"にも本鉄道が利用されていたので、時折"臨時列車"も運行されたはずだが、詳しいことはよくわからない。また、昭和24年に昭和天皇が佐賀関に行幸した際にも、本路線(恐らくこれも臨時列車)が利用されたという。

[救急列車]
 大志生木海岸で海水浴をしていた男性が溺れて、急遽日鉱佐賀関駅から"救急列車"(臨時便)が運転されたこともあったという。当時は並行する道路(現在の国道197号線)が未舗装(砂利道)のため自動車ではあまりスピードが出せず、日鉱金山駅が佐賀関製錬所病院の真前にあって、救急車で搬送するより速いという判断があったものと思われる。

[金塊窃盗事件]
 昭和37〜38年頃、本鉄道で新聞を賑わす"金塊"窃盗事件が起こっている。製錬所関係者や地元住民らが異口同音に語る"ナンバー1のエピソード"で、元車掌の方に伺うと、当時、佐賀関製錬所で生産された"金"は定期的に本鉄道を使って出荷されていたが、インゴットの扱いが驚くほど乱雑で、旅客も同乗する客車の後端を仕切って無造作に積込・運搬が行われていたという。金のインゴットは1本が約27kg、当時でも600万円の価値があり、これを狙って製錬所の従業員と日鉱佐賀関駅(もしくは日鉱幸崎駅)の助役が共謀して起こした事件だった。しかし、なにしろ古い話なので詳しい情報が少なく、今後も調査を続けていく予定。

[駅名標について]
 本鉄道の各駅はすべて頭に「日鉱」が冠せられているが、"駅名標"にもいちいち「にっこう...」と書かれていたことがわかっており、初めて本路線に乗車した人には結構強い印象を与えたようだ。(3.佐賀関鉄道の駅 (5) 日鉱小志生木駅 及び(6) 日鉱辛幸駅 の写真参照) 但し、これは昭和30年代の話で、昭和20年代に撮影された一部の古写真を見ると、駅名標の上では「にっこう...」が省略された時期もあったらしい。また、本鉄道の駅名標(鳥居型)は「表も裏も同様に表記する」仕様であったらしく、道路と並行する区間では「自動車の車窓からも駅名標の内容がよく確認できた」と考えられる。総じて駅の規模が小さいため、各駅とも駅名標は"鳥居型"が1枚だけだったと筆者は推測しているが、屋根付きホームの日鉱幸崎・日鉱佐賀関両駅と、列車交換のためホームが長かったと思われる日鉱大志生木駅については、数・形状・位置共に今後の研究の課題としたい。なお、他に昭和29年5月に撮影されたとされる写真を見ると、日鉱佐賀関駅の駅名標の隣駅表記が「にっこうかなやま」ではなく「にっこうふるみや」となっているのが興味深かった。日鉱金山駅の開業は昭和27年12月なので、1年半もの間、駅名標を書き換えなかったのは何か理由があるのだろうか?

[航空写真について]
 今回、駅位置の特定や駅の遺構を確認するに当たって、国土交通省の航空写真が非常に重宝した。本鉄道が運行されていた昭和21(1946)〜38(1963)年の間では、[日鉱幸崎―日鉱大平間]については<1948.3><1948.10><1961><1963><1974>年撮影、[日鉱大志生木―日鉱佐賀関間]については<1948><1963><1974>年撮影のデータをインターネットから閲覧可能だが、正直、縮尺[1/10000]以外では細かい構造物の識別までは不可能で、佐賀関地区においては[1/20000]の写真すらないのは非常に残念なことであった。お奨めは、[日鉱幸崎―日鉱大平間]であれば<1961>(昭和36)年、[日鉱大志生木―日鉱佐賀関間]ならば廃止5ヵ月後ではあるが<1963>(昭和38)年撮影のものが、最も解像度が高くて見やすい。また、<1974>(昭和49)年撮影のものはカラーの[1/10000]で非常に鮮明だが、廃線後10年以上経過しており、現役当時とは微妙な違いが懸念されるのは致し方がないところである。



★ 【最後に...】
 本鉄道は筆者にとって、とりわけ思い出深い路線です。廃線からもうすぐ50年、現在、線路跡は道路整備や宅地開発のために急速に失われつつあり、また鉄道関係者をはじめ当時のことを知る地元住民の方々の高齢化も進んでいるため、「今のうちにできるだけたくさんの情報を公開しておかなければ、大変魅力あるこの鉄道の貴重な資料や記憶が失われてしまう」という危機感から、今回このページを執筆しました。今後も、新情報が入り次第ページを更新していきたいと考えておりますので、もし、本鉄道に関する情報や特に"写真"をお持ちの方は、是非ご連絡を頂ければと存じます。(本ページに掲載許可を頂けなくても構いません。画像類は貴重な資料として永く愛蔵させて頂きます。) また、今回情報を提供して頂いた方々には、改めまして心より感謝申し上げます。


◆ 参考文献:「佐賀関町史」(大分県北海部郡佐賀関町史編集委員会編・1970)/「日本鉱業株式会社佐賀関製錬所」(日本鉱業株式会社佐賀関製錬所編・1956)/「鉄道ファン(昭和38年3月号)」(鉄道友の会編・1963)/「鉄道ピクトリアル(昭和39年7月号臨時増刊)」(鉄道ピクトリアル編集部・1964)/「軽便追想」(高井薫平・ネコ・パブリッシング・1997)/「列島縦断消えた軽便鉄道を歩く」(軽便倶楽部編・新人物往来社・1999)/「南の空、小さな列車」(湯口 徹・大分県立図書館・2003)/「消えた轍」(寺田裕一・ネコ・パブリッシング・2007) など。 イラスト協力:「イラストポップ(http://illpop.com/index.html)」