(特別エッセイ)【出札口の風景】


 特に今時の若い人などは「改札」の意味はわかっても「出札(しゅっさつ)」という用語は知らないんじゃないかなあと思う。そもそも「出札口」という言い方自体が(鉄道会社部内を除いて)あまり使われなくなっているうえ、最近はこの方面の合理化(機械化)が非常に進んでいて「きっぷうりば」と言い換えても、無人の"自動券売機"を想像する人が多いと思われるからだ。大きな駅の"旅行センター"や"みどりの窓口"なども確かに「出札口」には違いないけれども、筆者の場合は"きっぷマニア"ということもあって「(ひと昔前の)さっと"手売りの硬券"を発行してくれる小さな窓口」に未だ強い愛着を感じている。"100km対応自動券売機"が普及する昭和50年代半ばまでは、中小駅はもちろんのこと都市部のかなり大きな駅でも、このような硬券を主体に扱う"出札口"が結構残っていて、熟練の出札職員が旅客の求めに応じて"乗車券箱"(硬券ホルダー)の中からずらりとならんだ切符の1枚を瞬時に選び出し、慣れた手つきでガチャンと"ダッチング"(日付印字)する光景が見られた。今となっては懐かしい思い出である.....。

 国鉄時代の出札"氏"の中にはかなり横柄な人もいて、発行した券を無愛想にポンと投げ出された経験がある方も多いのではなかろうか。筆者も最寄の駅に自動券売機が設置されたときは、駅員と言葉を交わさずに切符が買えるようになったことを喜んだものだが、今ここまで(硬券・軟券を問わず)"手売り"の切符が姿を消してしまい、出札窓口で「XX(駅)まで」という旅客の決まり文句が聞けなくなってみると、却って寂しい気持ちになってくるから不思議なものだ。

左: 昭和46年10月に"無人化"されたものの、運転関係の職員(?)が引き続き(簡易)出札業務を行っていた田川線崎山駅 (現・平成筑豊鉄道。昭和60年頃)。

 "筆者好みの出札口"が全盛だったのは昭和30〜40年代で、当時はむしろ"無人駅"というのは少なく、山間や海辺の驚くほど辺鄙な小駅(いわゆる"秘境駅")にもちゃんと駅員が配置されて、出札などの駅業務が行われていた。筆者の偏見かもしれないが、そのような小駅ほど出札口のスペースは小さく、パチンコ店の換金所のように相手の顔だけがかろうじて確認できる程度の場合もあったようだ。昭和40年代からは鉄道の経営が厳しくなり、合理化の一環として駅の無人化が急速に進行して、これら極小駅の出札口が閉鎖される一方、大きな駅では自動券売機の導入が進んで、結果的に昔ながらの出札口はおおよそ中規模の駅に限られるようになった。しかも最近では、町村の代表駅(中心駅)まで無人化されてしまうケースが目立つ。また、平成に入ってからはJR各社が"硬券"まで廃止してしまい、かろうじて残った窓口でも味気ない"連綴式"の軟券に日付スタンプという所がほとんどになってしまった。

右上/左: 昭和63年9月に廃止となった上山田線真崎駅 (廃線頃)。
 昭和41年3月開業の比較的新しい駅だが、早くも昭和49年3月には無人化されたため、出札業務が行われたのはわずか8年間だった。この他、隣の熊ヶ畑駅・長崎本線東園駅・富内線岩知志駅・湧網線北見平和駅・根北線以久科駅など、極短期間で無人化されてしまった小さな駅に筆者は非常に惹かれる。




 幸い地方の中小私鉄では、今も昔ながらの出札口や硬券が残っている所がいくつかあり、中には博物館級の老朽施設・器械が未だ現役で使用されているケースも少なくない。これら"前世紀の遺物"は概ね東日本に多く、西日本では一畑電気鉄道や島原鉄道などで痕跡的に残っているだけである。しかし、中小私鉄を取り巻く厳しい情勢を考えると、このような"風景"を拝めなくなるのもそう遠いことではないかもしれない。




 駅の無人化後も駅舎が残るケースでは、板などで出札口やチッキ窓口が完全に閉鎖されたり、甚だしくは駅事務室部分がそっくり"削り取られる"こともあるが、壁面の微妙な凹凸から昔の出札口の位置や大きさを推定することはできる。また、何十年も前に閉鎖された窓口が当時のまま保存されている場合も稀にはある。昭和の末期頃までは、地方のローカル線を中心にこうした古い駅舎は結構残っていたものだが、昭和前期に竣工されて一斉に建築寿命を迎えたのに加えて、無人化に伴い不審火や不良の溜り場になるといった治安上の問題もあって、最近ではほとんどの木造駅舎(便所を含む)が取り壊されてしまい、跡地にバス停並の簡素な待合所だけがポツンと建てられたケースが多い。

冒頭/右: 昭和47年3月に無人化された後も、ほぼ当時の状態のまま地元民の手で大切に管理されてきた日豊本線重岡駅 (平成5年頃)。
 最盛期には十数人の駅員がいたという。その後、残念ながら駅舎は老朽化のため平成18年頃に解体され、代わりに立派な待合所が建てられた。

 古い駅舎では、出札口と並んで"旅客手荷小荷"(通称「チッキ」)窓口の跡が残っている場合が多い。出札口よりやや低い位置で荷台部分が少し突き出たちょっと幅広のスペースがあれば、それがチッキ跡と考えて間違いない。"チッキ"も古くはほとんどすべての有人駅で取扱いがあったが、旅行スタイルの変化や宅急便の普及により需要が漸減し、概ね昭和50年代までには取扱いを止めた駅が多い。(制度の廃止は昭和61年頃。)

左: 昭和57年3月に無人化され、出札口が閉鎖された深名線添牛内駅 (平成6年頃)。
 ほぼ中央が出札口跡、左側の一段低くなっている場所がチッキの窓口跡と思われる。豪雪著しい山間の僻地にあったため、道路が整備されるまでは結構利用されていたのではないだろうか。このような"趣深い滋味ある駅舎"が姿を消していくことは本当に残念でならない。

 余談だが、国鉄では昔「電報取扱駅」の制度もあった。業務用の鉄道電話回線を利用して駅窓口で一般向けの電報配信サービスを行ったものだが、こちらの方はすべての有人駅で取扱いがあったわけではない。昭和20〜30年代の古い時刻表の駅名欄左に「〒」マーク(初期)または"電電公社"(国鉄と同じ3公社の1つ"日本電信電話公社")のマーク(後期)が付けられている駅が対象で、これが大きな駅だけと思いきや、どういうわけか茶屋川(瀬棚線)・蕗ノ台(深名線)・山軽(天北線)・川上(池北線)・鱒浦(釧網本線)・二見ヶ岡(湧網線)など、ちょっとびっくりするような極小駅がリストに入っていて大変興味深い。なぜか中程度の駅は却って除外されており、山間の辺鄙な小駅(当時は駅員配置)に多いのは、一般家庭ですら固定電話が普及していなかった時代に"公衆電話"の制度も始まったばかり(昭和26年から)で、これら極小駅周辺には他に緊急通信手段がなかったからではないかと思われる。

右: 湧網線二見ヶ岡駅に付けられた「電報取扱駅」のマーク (交通公社の時刻表・昭和36年10月号)。
 沿線ではわずか1駅だけ(網走駅を除く)、むしろ乗降量がずっと多い中湧別・佐呂間・常呂など主要駅でも取扱いがないため、すごい違和感を感じる。(但し、文献によると当駅の無人化は昭和35年9月となっているので、本号に関しては"マークの消し忘れ"ということも考えられる。) 「北海道690駅」(昭和58年・小学館刊)を読むと「待合所と見間違えるような小さくて古い駅舎が雑草の中にぽつんとある。」とあり、恐らく廃線(昭和62年2月)頃まで駅舎は残っていたと思われる。こんな小さな駅で出札やチッキ・電報の取扱いが行われていたと想像すると本当にゾクゾクしてくる.....。

左: 石北本線旧白滝仮乗降場で電報取扱い? (交通公社の時刻表・昭和25年10月号)。
 昭和22年2月に仮乗降場となったばかりの旧白滝が全国版の時刻表に載っているのも不思議だが、これは明らかに誤植で、実際には瀬戸瀬〜白滝の5駅では電報の取扱いはなく、むしろ僻地にある上白滝・奥白滝・上越・中越・天幕の5駅が"電報取扱駅"だった。編集者が間違うのは無理はない?