(特別企画)【九州の私鉄入場券に関する考察】


1.はじめに

古い時代の私鉄入場券に関しては、残念ながら国鉄券に比べて資料が乏しいため、詳細な設備状況や様式など不明な点が多い。国鉄の場合は、ほとんど需要がないと思われる僻地の小駅でも無人駅でなければ必ず硬券の普通入場券(以下「硬入」。”代用券”を含む)を置いたが、私鉄の場合は、会社によりまた時期により入場券の設備に一貫性がなく、様式に関しても、概ね同時期の国鉄券に倣っているケースが多いものの、やはり各社各様で実態を把握しにくいのが実情だ。大手、準大手私鉄では、早くから軟券化された阪神・阪急・京阪・西鉄など一部を除き、ひと昔前(昭和40年代)までは硬入を発売していたようだが、需要の見直し(ほとんど売れない)や「硬券」自体の縮小という背景があって、次第に設備を廃止もしくは軟券化した所が多い。(近年、小田急、京王、東急、京急など一部で硬入が復活しているが、多分に”マニア向け”という感じがする。意外な所では、都営地下鉄や東京モノレールなどでも売られていた。)その他の中小私鉄の場合も、右に倣えとばかりに口座を廃止する傾向にあり、入場券蒐集家にとっては寂しい限りだが、現在でも硬入を発売しているのは一部の「(多くは自動券売機を導入していない)地方の中小私鉄だけ」のようだ(一部例外あり)。また、この中小私鉄の中には、各種文献やオークション誌上などで全く資料が見つからず、最初から入場券が設備されなかったのではないかと思われるケースもしばしば見受けられる。(とりわけ昔のいわゆる”軽便鉄道”(廃止線)、地域的には西日本に多いように思われる。)特に九州では、昭和30年代まで複数の中小私鉄路線が存在し、出札方式が異なる”路面電車”と古くから軟券化されている西鉄を除いて概ね硬券の乗車券が発売されていたことはわかっているものの、入場券に関しては、昭和59年に廃止された鹿児島交通と現役の島原鉄道の他はほとんど見たことがなく、私自身、長い間「大部分の路線で入場券はなかった」と考えていた。しかし、今回再調査の結果、一部の路線で実例を発見したため、常備片道乗車券等を含めた設備状況(昭和30年代以降)の推測と併せて紹介したい。(もし、記事が間違っている場合、またその他の情報や実際に貴重な券をお持ちの方は是非メールをお寄せください。)


2.大分交通

最盛期、別大間の路面軌道を含む5路線を有していたが、昭和28年10月に豊州線、昭和40年8月に宇佐参宮線、昭和41年4月に国東線、昭和47年4月に別大線、昭和50年10月に耶馬渓線と相次いで廃止になっている。早く廃止された豊州線と路面電車であった別大線を除く3路線の乗車券類は、コレクターの愛蔵品を中心に比較的多くが残っており、最も一般的な自線内「常備片道乗車券」(すべて一般式)に関しては、昭和30年代前半まではA型硬券が主体であったと思われるが、遅くとも昭和40年以前にはやや特殊な「上下連綴式の手売り軟券」に置き換わったとみられる。ところが、その後も硬券は完全に廃止されなかったらしく、宇佐(なぜかB型券)、杵築(A型券)、中津(A型券)の各国鉄連絡駅では廃止最終日付の硬乗が確認されており、なぜか大貞公園(A型券)など一部の中間駅でも口座が維持されていたようだ(多客期などの臨時用か?)。入場券に関しては、今回、宇佐参宮線の宇佐八幡、国東線の杵築町(後の杵築市)、安岐、国東、耶馬渓線の大貞公園、耶馬渓平田、耶鉄柿坂の7駅分が見つかった。


(1) 宇佐参宮線

宇佐八幡駅では、廃止最終日の常備片道券が「連綴式の手売り軟券」であったことがわかっているが、廃止3ヶ月前発行のA型硬入(画像のオリジナルはモノクロのコピーで、着色は筆者が推測により行った)が見つかったことから、廃止時まで硬券が設備されていたのは確実と思われる。(他に硬券の常備往復券などが残っていた模様。)
豊後高田駅も廃止最終日の自線内常備片道券は軟券であったが、同様に硬入などは残っていた可能性が高い。残る封戸(ふべ)、橋津(かつては有人駅だったらしい)、宇佐高校前の3駅は無人であった。


※ その後、「中小私鉄入場券図集」(関西乗車券研究会編集)により"豊後高田"(B型黄帯・無日付)の入場券が確認できました。同じもの(左)を筆者も入手しましたが、無日付の券をオークション等でよく見掛けますので、ひょっとしたら廃札券が出回っているのかもしれません。また、上記宇佐八幡駅硬入は実際にはもっと紙質が白く、帯色ももう少し赤みが強い感じです。


※ その後、筆者はネットオークションで左のような硬券を入手しました。一見普通の片乗に見えますが、"2等制"移行後は宇佐八幡駅でも自線内の片道券は軟券化(A型青地紋連綴式)された可能性が高いうえ、B型券で赤地紋というのも気になります。「(改)」の記号の意味もわかりません。(発行日付からみて臨時の出札券でしょうか?) ちなみに、大分合同新聞社発行の写真集「郷愁のローカル鉄道宇佐参宮線」(平成15年)にも同様式の「宇佐から宇佐八幡ゆき」「宇佐から封戸ゆき」(宇佐駅発行)B型硬券が掲載されています。

※ さらにその後、"初心者"様より大分交通・鹿児島交通・日本鉱業佐賀関鉄道等の非常に貴重な乗車券類の画像をたくさん送って頂きましたので、以下、氏のご好意により、これらの画像を順次掲載致します。

[宇佐八幡駅] (画像提供/"初心者"様)

 全国八幡宮の総本社である"宇佐神宮"のすぐ傍らにあり、立派な神殿風の駅舎に長い突端式ホームを備え、年初などの参拝シーズンには臨時列車も運行されて賑わったという。本線は大正3年に独立の鉄道会社として開業しており、昭和20年4月になって"大分交通"に統合・改称されているため、実は"宇佐参宮鉄道"(左)と呼ばれた時代のほうが長かった。戦中・戦後の物資難の時代は一部に軟券(下左:珍しい連綴式の往復券か?)も使用されたようだが、恐らく昭和20年代後半にはほぼ硬券(最初はB型?)が復活したものと思われる。また、昭和30年代には"豊後豊岡"のような小駅まで常備券(下中央)があったことを考えると、国鉄連絡券もかなり多数設備されていたのは間違いない。(これら国鉄連絡券だけは最後まで硬券が残った可能性が高い。)

[豊後高田駅] (画像提供/"初心者"様)

 豊後高田市の中心部(現在の"大交北部バスターミナル")にあり、昭和30年頃には電飾式看板も掲げられた近代的駅舎に改築されて多くの乗降客で賑わった。3等制が廃止となる昭和35年頃までは自線内も硬券だった他、かなり多種の国鉄連絡券も備えていたことが知られている。"宇佐参宮線"自体は昭和40年8月に廃止されたが、その後も駅舎は大分交通のバスターミナルとして存続し、出札口もあって暫くの間は鉄道時代とあまり変わらない多様な硬券(主に国鉄連絡の常備・準常備・補充券)を設備していた模様。



 左は、私鉄では非常に珍しい1等券(D型緑地紋の補充片道乗車券)だが、当然のことながら自線内には1等車が連結されていないので、最初から国鉄連絡の"異級乗車券"(社線2等・国鉄1等)用として設備されたものであることがわかる。(「豊後高田から」=発駅印刷済であることに注意) かなりの珍品と思われる。


(2) 国東線

杵築町、安岐、国東の3駅で昭和30年代前半に硬入の設備があったことはわかったが、晩年の状況は不明。いずれもなぜかB型券(この時期は国鉄券の場合、A型のケースが多い)で、沿線の杵築祇園、守江、奈多八幡、武蔵の各有人駅でも同じものが発売された可能性が高い。しかし、廃止頃、常備片道券は各駅ともやはり連綴式の手売り軟券であった模様。

※ その後、「中小私鉄入場券図集」(関西乗車券研究会編集)により"杵築祇園"(B型赤帯・昭和32年発行)、"奈多八幡"(赤帯のないB型5円料変券・昭和41年発行)の入場券が確認できました。また、安岐駅にはA型券もあったようです。

[杵築祇園駅] (画像提供/"初心者"様。以下同)

 国鉄杵築駅より約3km程の田んぼの中に設けられた小駅だったが、旧制杵築中学(県立杵築高校)の最寄駅のため、駅員が配置されて列車交換(相対式ホーム)も行われたらしい。


※ その後、昭和37年発行の2等券(左)も見つけましたが、この頃はまだ自線内の常備片道券もA型硬券(青地紋)だったようです。しかし、この後間もなく杵築駅を除いて各駅とも自線内は連綴式の手売り軟券に移行したことがわかっています。

[杵築市駅]

 本駅は、国鉄駅と区別するために最初"杵築町"駅(上)として開業(大正11年)したが、市制施行に合わせて昭和30年より"杵築市"駅と改称された。国鉄杵築駅("本駅")よりもずっと市街地に近く、市民からは単に"市駅"という呼称で親しまれたという。大分合同新聞社発行の写真集「郷愁のローカル鉄道国東線」(平成14年)には本駅の出札口(女性の出札職員)を撮った写真が掲載されており、大分交通別杵線・八坂線・潮来線などのバス乗車券(硬券かどうかは不明)も一緒に発売されていたことが知られる。今回の発見により、廃線頃には多くの駅で、入場券が却って"A型"化したこともわかった。

[守江駅]

 守江湾の干潟と山丘に囲まれた窮屈な場所に、相対式ホームと引込線をコンパクトにまとめた小駅だった。現在、駅そのものの痕跡は全く残っていないが、国道213号線を走ると当時の雰囲気(構内配線等)をなんとなく感じることができる。

[安岐駅]

 やはり「郷愁のローカル鉄道国東線」に大きな駅舎と待合室内(売店)を撮った写真が掲載されており、中間駅としては最大規模の主要駅だった。同じ時期、"土佐電鉄"に同音異字の「安芸駅」があったため、しばしばオークション等で混同されているのを見掛ける。

[武蔵駅]

 安岐から先(12.2km)は昭和8〜10年にかけて延伸した比較的新しい区間で、武蔵・国東両駅の切符は比較的よく見掛ける。少し先の綱井駅も、当駅と同規模の似たような構造(島式ホーム)を持つ有人駅だったが、売店まで置かれていたにもかかわらず、なぜか同駅発行の券だけは見たことがない。

[国東駅]

 沿線で最も遅く開業(昭和10年11月)し、一足早く廃止(昭和39年8月)されたため、終着駅なのに割合"影が薄い"印象を受ける。しかも、昭和36年10月には水害で安岐―武蔵間が休止となったため、鉄道ターミナルとしては実質26年ほどの歴史しかなく、むしろ国東半島の方々に伸びる大交バスの発着場としての役割のほうが大きかったという。左下の券は通常の国鉄連絡券(鉄道経由)と思われるが、右下の券はほぼ同時期発行で着駅も同じなのに「国東―杵築市間?がバス経由」という珍品で、運賃が30円高いにもかかわらずこのような常備券まであった背景には、当時から"鉄道よりバスを使ったほうが意外と便利だった"事情がうかがわれる。(運転本数や乗車時間の問題か?)


(3) 耶馬渓線

前述の通り、耶馬渓線でも昭和40年頃から徐々に軟券化が進んだとみられるが、硬券(紙質がやや悪く、薄手のいわゆる「半硬券」に近い)も一部の駅で、一部の券種に限って維持されたのではないかと推測される。硬入もその1つで、耶鉄柿坂などの大きな駅でも昭和40年代に入ると、自線内の常備片道券は連綴式の手売り軟券に移行した模様だが、入場券はすべて硬券であった可能性が高い。耶鉄柿坂駅は廃止間際(昭和46年発行)のものが確認されたが、A型の10円券で料変印も押されていることから、長い間売れず、新券が出ないまま廃止日に至ったものと思われる。(この券に関しては、古いA型券で「赤帯」であるにもかかわらず、アンダーラインの位置だけが晩年の様式となっていて、やや違和感を感じる。過渡的な様式とも考えられる。)
また、沿線では、他に大貞公園と耶馬渓平田の2駅でも硬入が見つかった。いずれもB型の半硬券で、朱帯(赤線)ではなく”黄帯”(実際は橙色に近い)である点、特異なアンダーラインの位置(駅名の下ではなく「普通入場券」の下に引かれている点)など、鹿児島交通の晩年(昭和39年頃から59年の廃止まで)の様式に酷似していることから、同一印刷会社の製作によるものと推測できる。大貞公園駅のB型硬入は昭和44年と48年発行の2枚が見つかっており、いずれも料変券であること、同駅における入場券の需要などを考えると、昭和40年代前半に出現した後、昭和50年の廃止時まで発売された可能性が高い。耶馬渓平田駅のものは無日付のため”廃札券”とも考えられるが、同様に昭和40年代初期のものではないかと思われる。このタイプの入場券は、これら普通の中間駅で見つかったことから、他に真坂、洞門、羅漢寺、津民、下郷、白地、守実温泉などの有人駅にも設備されていた可能性が高いが、推測の域を出ない。なお、野路、上ノ原、諌山、冠石野(かぶしの)、中摩、宇曽の各駅は、有人であったか無人であったかすらよくわからない。八幡前駅は有人だが、晩年には自動券売機が設置されていた模様。(下/画像提供/ラミー氏)

※ その後、"ラミー様"から「耶馬渓線の駅員配置状況」について情報を頂きました。「鉄道ピクトリアル」昭和42年7月号の特集記事によると、不明の6駅のうち上ノ原だけは"行き違い設備のない停車場(有人)"で、野路、諌山、冠石野(かぶしの)、中摩、宇曽の各駅は無人の"停留場"だったようです。また、津民、白地の2駅も昭和42年4月に無人化されたことがわかりました。


※ また、「中小私鉄入場券図集」(関西乗車券研究会編集)により"八幡前"(B型黄帯・昭和44年発行)、"下郷"(A型赤帯・昭和42年発行)、"守実温泉"(A型赤帯・昭和45年発行)の入場券が、さらに「鉄道入場券図鑑」(日本交通趣味協会発行)により"上ノ原"(A型赤帯?・昭和41年発行)の入場券が確認できました。なお、前者の資料によると耶鉄柿坂駅は、昭和34年頃は"B型赤帯"の券だった模様で、必ずしもA型券が古いというわけでもなさそうです。


※ その後、昭和41年発行八幡前駅の入場券(左)を見つけましたが、この頃はまだA型券(朱帯)だったようです。上記耶鉄柿坂駅の入場券と同じく、アンダーラインが「普通入場券」の下に引かれている過渡的な様式でした。

※ さらにその後、"羅漢寺"のB型硬入(昭和44年発行)も見つかりました(左下)。恐らくは最晩年の様式で、予想通り粗悪な紙質の「半硬券」でしたが、帯色は思ったよりも橙色味が強く、晩年(現行)の鹿児島交通などの券とはかなりイメージが違っています。右下は昭和38年羅漢寺駅発行のA型自線内片乗です。

[大貞公園駅] (画像提供/"初心者"様。以下同)

 当駅は沿線で一番最後まで残った有人駅(起点の中津を除く)で、昭和19年に神戸製鋼中津工場ができた際、800mほど上ノ原寄りに移転し、瀟洒な駅舎(2階建?)に建て替えられたという。昭和50年の廃線(中津―野路間)まで列車の交換作業の他、切符の発売も行ったことがわかっており、前述の通り、入場券のほか「中津ゆき」の片乗硬券(臨時用?)が確認されている。左の券は"耶馬溪鉄道"時代(昭和20年4月以前)の古い往復乗車券を廃線直前になって発売したものらしく、かなりの珍品。(運賃変更印があるため廃止記念の"復刻券"とは考えにくい。)

[上ノ原駅/洞門駅/津民駅/耶鉄柿坂駅/下郷駅]

 自線内の片道乗車券は3等制廃止(2等制施行)を機に硬券(A型)から連綴式の手売り軟券に移行したものと考えられる。但し、各駅とも入場券だけは最後まで硬券だったが、昭和41年頃からまた"Bサイズ"に戻ったらしい。また、津民駅は昭和42年10月に無人化されているため、硬軟共に希少。右下の下郷駅発行の券は"耶馬溪鉄道"時代の古い省線(国鉄)連絡券で、これもなかなかの珍品。


[守実温泉駅]

 文献によると、守実駅が守実温泉駅に改称されたのは昭和15年6月ということになっているが、なぜか入場券だけは昭和41年まで「普通入場券 守実駅」と印刷されたものが使われていたらしく、券番が「0400」に達したのを機に新券が出て改正された(下2枚連番)。ちょうどこの頃から"B型"にサイスダウンした駅が多いが、当駅の場合は結局最後までB型券は出なかった模様。


3.日本鉱業佐賀関鉄道

銅などの非鉄金属精錬を事業とする日本鉱業(現、日鉱金属(株))佐賀関製錬所と日豊本線を連絡するために、戦後間もなく敷設された軽便鉄道だが、例により採算の悪化から早くも昭和38年5月には廃止となっている。もともとは、戦時中危険な海上輸送を避けるために計画されたといわれており、その後隣接する国道197号線の道路整備が急速に進んだことから、もし軍の要請がなかったならば、路線自体が誕生したかどうか疑わしい。線路はほぼ全線にわたって異常なほど海岸端に張り付くように敷かれており、 実際、高波により路盤が潮を被るとしばしば運休になったという。本鉄道は、数少ない地元住民や旅行者なども利用することはできたものの、製錬所及びその従業者や家族の専用線という性格が強く、しかも関係者は基本的に乗車無料で専用のパスを交付されたことから、元来乗車券自体の需要は少なかったと考えられ、十数年という路線の寿命も考慮すると、現在マニアなどの手元に残っている乗車券類は極めて少ないと思われる。(佐賀関製錬所総務課に問い合わせたところ、廃札券などは既に廃棄して残っていないという。)沿線で出札を行っていたのは、 製錬所の社宅に隣接する大志生木、古宮、佐賀関(正式には全ての駅名に「日鉱」を冠し、駅名標も「にっこうおおじゅうき」などとなっていた)の3駅で、最も一般的な自線内「常備片道券」はB型硬券であることがわかっている。(画像(左)のオリジナルはモノクロのコピーで、着色は筆者が推測により行った。昭和35年以降の券は今のところ見つかっていないが、3等から2等への繰り上げに伴って青地紋に変更されたと考えられる。)この硬乗は、地紋様その他からやはり昭和39年に廃止となった”熊延鉄道”や古い時期の鹿児島交通の券に酷似しており、やはり同一印刷会社の製作による可能性が高い。その他、国鉄線への常備連絡券(A型券?)などがあったことも確実だが、入場券に関しては”山鹿温泉鉄道”や”熊延鉄道”などと共に、当初から設備されなかったのではないかと思われた。今回見つかった佐賀関駅の硬入はB型の硬券(「半硬券」ではない。駅名部分はゴム印)で、日付と料金に矛盾はないものの、様式の違いから明らかに別の印刷会社の製品と思われる他、改札鋏の形が異なる点や予想される需要に比べて大き過ぎる券番(2824)などから、誰かが造った「模擬券」ではないかという疑問が拭いきれない。(昭和40年代の日付が入った”井笠鉄道”の硬入の一部に、本券とそっくりなものが存在することがわかった。もし、同じような券をお持ちの方、実情をご存知の方は是非ご連絡をいただきたい。)なお、ホームに掲げた「日鉱大志生木駅」硬入の画像は、鹿児島交通の昭和30年代の券を参考に筆者が推理して合成したもの(本物ではない)なので、悪しからずご容赦のほどを(~=~)。写真は製錬所が発行した”佐賀関鉄道廃止記念絵はがき”の「日鉱佐賀関駅」駅舎(現在は”JR九州バス佐賀関駅”となっている)及び「日鉱小志生木駅」(無人駅)。


※ その後、「西日本〜九州地方の中小私鉄入場券」に関して、[匿名希望]様より下記のような貴重なご指摘を頂きました。
・西日本〜九州にかけての中小私鉄では入場券を発売しない会社が多かった。
・"入場券がない"という場合、厳密には"入場券制度そのものがない"会社と"入場券制度があって、ちゃんと値上げ申請も行うのに実際には券は作らない"会社がある(戦後)。
・戦前は、役所の営業監査の折に入場券の設備を指導されることが多々あったらしい。
・九州で硬券類を発売した中小私鉄では、戦後は山口県の"某"印刷会社もしくは国鉄門司印刷場の委託製作によるものが多い。特に入場券に関しては前社調製のものがほとんどと思われる。
・したがって、上記の「日鉱佐賀関駅」硬入は"偽造券"である可能性が高く、"井笠鉄道"のものも含めて、ゴム印部分を除く券本体は"X"県の"Y"印刷会社(筆者伏字)調製のものであることが判明している。佐賀関鉄道には入場券はなかったと思われる。
 また、[匿名希望]様のコレクションの中から佐賀関鉄道の極めて貴重な硬券画像を頂戴しましたので、併せてご紹介します。やはり昭和35年頃から地紋色の変更(赤から青)があった模様で、A型の常備国鉄連絡券(上段中央)や小児専用券(下段中央・右)も確認されました。自線内片道券でも初期の券(上段左)はAサイズだったようです。さらに、同氏編集の「中小私鉄入場券図集」には昭和34年発行の「御船駅」硬入が掲載されており、意外にも"熊延鉄道"には入場券があったこともわかりました。


◆[匿名希望]様、本当にありがとうございました。

※ なお、本鉄道の乗車券類に関しましては、(特別企画)【"幻の軽便" 日本鉱業佐賀関鉄道】の中でも触れておりますので、ご参照下さい。


4.鹿児島交通

「南薩鉄道」と呼ばれていた時代が長く、最盛期には伊集院―枕崎間の本線の他、阿多―知覧間と加世田―薩摩万世間の支線を持つ割合に長大な路線であったが、例にもれず昭和30年代に入ると経営収支が悪化し、昭和37年に万世支線、昭和40年に知覧支線が先行廃止、昭和39年には三州自動車に吸収合併されて社名も変更 となり、その後暫くは細々と命脈を保ってきたが、昭和58年6月の加世田地区の集中豪雨災害が致命傷となり、翌59年3月に全線廃止となっている。 晩年は、経営の合理化から列車交換設備が整理されて、駅員配置駅は日置、伊作、加世田、枕崎の4駅だけとなったが、 最盛期には沿線のほとんど全駅(?)で出札が行われていたとみられ、今回の調査では他に上日置、吉利、吹上浜、阿多、津貫、金山、知覧各駅の硬入、薩摩湖、鹿篭、薩摩白川、薩摩川辺、薩摩万世各駅の硬乗等が見つかった。(硬入は全ての有人駅に”駅名常備”の券(ゴム印でないもの)が設備されていたとみられる。)それらの多くは昭和30〜40年代に無人化されたため、特に小駅の硬券類は国鉄券の珍品に劣らず入手困難な状況だ。 一般的な自線内の「常備片道券」はすべて一般式のB型硬券(”半硬券”に近い)で、3等時代の様式は不明だが、2等時代から昭和50年頃までは青地紋、以後は赤地紋となっており、同時に地紋様の文字部分も変更されている(「てつだう」->「しようけん・TICKET」)。この旧タイプの硬乗は、前述のように昭和30年代の九州地区の中小私鉄(熊延鉄道、山鹿温泉鉄道、日本鉱業佐賀関鉄道、宮崎交通など)に典型的に見られる様式なので、1つの印刷会社がこれらを一手に扱っていた可能性が高い。一方、硬入は昭和30年代前半から既にB型券であったとみられ、当初は「赤帯」であったが、昭和39年頃から「黄帯」(実際は橙色に近い)に変更となり、同時にアンダーラインの位置が駅名下から上部「普通入場券」の下に移動している。これは全国的にみても例を見ない特異なデザインで、単なる印刷会社のミスとも考えられるが、その後廃止時まで20年間も訂正されなかったところをみると、何か特別な理由があったのかもしれない。廃止頃に硬入を発売していたのは、日置、伊作、加世田、枕崎の4駅で、特に枕崎は国鉄指宿枕崎線の終着駅だが、鹿児島交通に管理が委託されていたため国鉄券は存在せず、逆に伊集院駅は国鉄券のみで鹿児島交通独自の入場券は一度も発売されなかったとみられる。なお、昭和58年6月の豪雨災害以後、伊集院―日置間と加世田―枕崎間は代行バス連絡となっており、列車が発着しなくなったにもかかわらず、枕崎駅では入場券(全くナンセンスだが...)他通常の出札業務が行われていたようだ。



※ "ラミー"様より「南薩鉄道」時代の貴重な硬入(薩摩湖5円券)・硬乗画像を送って頂きました。3等時代の地紋色はやはり国鉄券と同じ淡赤色だったようです。

◆ラミー様、いつも本当にありがとうございます。

※ また、「中小私鉄入場券図集」(関西乗車券研究会編集)により"南多夫施"、"鹿篭"の入場券も確認できました。


[日置駅/吉利駅/永吉駅/上加世田駅/津貫駅/金山駅] (画像提供/"初心者"様)

 戦後の物資難の時代は、B型券をさらに2分割したものを入場券として使っていたことがわかった(下左)。また、日置、伊作、加世田、枕崎の4主要駅を除くこれらの小駅は、現存する券の発行日付からみて、いずれも昭和40年代に無人化されたものと考えられる。


◆"初心者"様、今回は本当に大変お世話になりました。この場を借りて、深く御礼申し上げます。


5.島原鉄道

昭和30〜40年代の雰囲気が残る、九州では”最後の砦”ともいうべき地方鉄道で、 平成3年の普賢岳噴火による度重なる被害(島原外港―深江間不通)の際も奇跡的に復旧を果たし、部分廃線することもなく、最盛期の全区間を維持したまま今日に至っている。 経営的に余裕のない中小私鉄の場合、自動車全盛の時代から将来旅客の増加が見込めないということもあって、 このような大規模災害の発生を機に廃線に追い込まれたケースが非常に多く、島鉄の場合も周辺自治体からの厚い資金援助がなかったならば、”バス転換”を余儀なくされていた可能性が高い。しかも、嬉しいことにかなりの駅が未だに無人化されておらず、10年位前までは国鉄連絡駅(始発駅)の諫早の他、本諫早、愛野、吾妻、西郷、神代町、多比良町、島鉄湯江、島原、島鉄本社前、南島原、島原外港、深江、布津、有家、西有家、北有馬、原城、口之津、加津佐の19駅で出札が行われていたことがわかっており、現在でもその大部分で硬入を含む多種の硬券乗車券類が発売されているものとみられる。また、大三東、堂崎、有馬吉川など昭和30〜40年代は有人で、その後無人化された駅もいくつかあるようだが、詳しいことは不明。(情報をお持ちの方は教えてください。)自線内の「常備片道券」はほとんどすべて一般式のB型硬券(”半硬券”に近い)で、これには完全な常備式のものと発駅をゴム印で記入する半補充式のものがあり、特に後者のものは活字や小児断線などのデザインが異なる数種類のものが混在している。(昭和56年発行の「A型」券も見つかった。)地紋色は、自線内全区間で「発売当日限り有効」にもかかわらず、なぜか2等券時代以来の「淡青色」そのままで、当日限りの国鉄連絡券が「淡赤色」に変更されているのとは対照的だ。なお、国鉄連絡券は発行駅や着駅の需要に応じて、常備式(A型券)、準常備式(A型もしくはD型券の下端を切断するもの)と着駅補充式があり、補充券にはつい最近まで、国鉄ではかなり以前に廃止されたD型硬券(右端を切断するもの)も使用されていたようだが、現在では概ね軟券(国鉄様式に倣ったもの)に変更されているようだ。(昭和55年頃までは一部の駅で、やはり今ではお目に掛かれない「C型」硬券の補充往復乗車券(右端を切断するもの)なども設備されていた模様。)一方、硬入は10円券の時代からB型券で、やはり初期のものは「赤帯」だが、鹿児島交通などと同様、昭和40年前後に「黄帯」(橙色に近い)に変更されたうえ、アンダーラインの位置も移動している。その後、注意書字句や額面の活字体も若干変更になった他、現行のものはさらに帯色がより黄色に近い色合いに変わっており、帯幅も細くなっている模様。また、駅名部分は古くから、全て印刷済みの常備式とスタンプで捺印する補充式のものがあり、常備式は比較的需要のある主要駅を中心に、かつては南島原、口之津などにも設備されていたらしいが、残念ながら現在では島原駅のみのようだ。なお、本鉄道では、基本的に古い券を売り切ってから新券を請求することになっているようで、「賃改券」や「料変券」を目にすることが多く、様式の異なる乗車券類が混在する要因となっている。駅によっては、昭和50年代半ばまで硬入の10円券が売られていたという。


※ その後、島原鉄道の南線区間(島原外港―加津佐間)が収支の悪化を理由に、平成20年3月31日をもって廃止となりました。深江・有家・北有馬の各有人駅には既にダッチングマシンがなく、晩年は"日付スタンプ"で代用していたようです。また、少なくとも廃止直前は加津佐駅の硬入が"常備式"であったことも確認できました。ちなみに、平成20年4月現在、出札業務を行っているのは、本諫早、島原、南島原の3駅員配置駅(直営)と愛野、吾妻、多比良町、島鉄本社前、島原外港の5委託駅だけになった模様です。


6.その他

昭和30年代に硬券乗車券類を発売した私鉄としては、他に「宮崎交通」(昭和37年廃止)、「熊延鉄道」(昭和39年廃止)、「山鹿温泉鉄道」(昭和40年廃止)などが挙げられる。文献やオークション誌などで現存する券をみると、自線内の常備片道券は概ね同一の印刷会社製とみられるB型券だが、その他の券種については資料が不足しており、残念ながら詳しいことはよくわからない。硬入も未だに一度も見掛けたことがないので、最初から設備されなかったということも考えられそうだ。(もし、実券をお持ちの方がおられたら、是非画像をお譲りください。)
また、旧国鉄線でその後第3セクター方式により復活した「南阿蘇鉄道」「松浦鉄道」「平成筑豊鉄道」「くま川鉄道」「肥薩おれんじ鉄道」などでは、自動券売機やワンマン運行に伴う"整理券"方式が普及しており、出札窓口がある主要駅でも手売りの軟券が主体とみられるが、現在、高森(南阿蘇鉄道)、佐世保(松浦鉄道)、たびら平戸口(松浦鉄道)、人吉温泉(くま川鉄道)など一部の駅で硬券が痕跡的に発売されている由である("開業記念乗車券・入場券"の類を除く)。高森駅では当初"カラフルな自社地紋様"の国鉄連絡券(A型券)が数種類のみ、MR佐世保、たびら平戸口の両駅では平成7年8月頃から赤地紋で殺風景な様式の硬入(A型券)が発売されるようになったが、「大学」駅同様、"観光記念入場券"的な意味合いが強いようだ。(その他、三代橋、蔵宿、夫婦石、今福などの硬入も発売されている模様だが、いずれも本来は無人駅。) なお、やはり第3セクターで平成17年9月より休止(20年12月全線廃止)になった「高千穂鉄道」でも、日之影温泉、高千穂両駅の地紋入B型硬入などが確認されている。

※ "高森駅(南阿蘇鉄道)"では現在(平成20年)でもB型硬入(記念入場券)を発売していますが、既にダッチングマシンはない模様で、特にお願いしたわけでもないのに「無日付」のままでした。(左:その他"南阿蘇水の生まれる里白水高原"のD型記念入場券もあり。) 割合に紙質はよいのですが、最近の観光記念入場券に多いオフセット印刷のつまらないデザインで、こういう券を見ると「せめて昔の国鉄・JR仕様を真似れば数倍は売れるのに」といつも思ってしまいます...。

※ その後、"初心者"様に送って頂いた切符の画像中に、熊延鉄道砥用駅の入場券を見つけました(左)。なんと「2銭券」ですが、日付からみて廃線(昭和39年3月31日)直前に発売されたものらしく、このまま最後まで新券(10円券)は出なかったと考えられます。熊延鉄道では他に御船駅のB型硬入(10円券)も見つかっており、甲佐・佐俣など他の有人駅についても可能性はゼロではないと思われます。

※ また、余談ですが、"西鉄福岡・西鉄大宰府・西鉄柳川"の各駅(西日本鉄道)では比較的近年(少なくとも昭和50年代前半)まで大牟田連絡の国鉄連絡乗車券(A型青地紋)が設備されていたことを某HPで知りました。"西鉄"はかなり大昔に軟券化されたことがはっきりしており、連絡券とはいえ今まで硬券の実物を一度も見たことがなかったので、筆者には少なからず驚きでした。(画像を掲載できないのが残念。) 当然これら以外にも色々存在した可能性は高いですが、実態は全く不明です。設備状況をご存知の方、また実券をお持ちの方は是非お知らせ下さい。
(その後、西鉄の連絡券について新情報を得ました。(特別企画)【九州の連絡乗車券に関する考察】9.西日本鉄道 をご参照下さい。)