(特別企画)【"大きな小駅?" 鹿児島本線門司駅の栄枯盛衰】


1.はじめに

 最初にお断りしておくが、表題の「鹿児島本線門司駅」とは旧・門司駅(現・門司港駅)ではなく、あくまで現・門司駅(旧・大里駅)のほうである。確かに門司港駅は、かつて"九州鉄道"の起点として九鉄本社をはじめ代々、帝国鉄道庁・鉄道院・鉄道省・国鉄の鉄道管理局や支社が置かれ、またルネサンス式駅舎が"国の重要文化財"に指定されていることもあり、鉄道誌に限らず何かと話題に上ることが多い。しかし、こちらの門司駅のほうは、似たような"栄枯盛衰"を経験してきたにもかかわらず、門司港駅に比べると"地味"なせいか、どうしても影が薄い。なぜ、"門司港"駅ではなく"門司"駅なのかと不思議に思う方も多いかもしれないが、私が思うに「"駅"としての盛衰はむしろ門司駅のほうがよりダイナミック」であり、昔は隣の小倉駅と肩を並べた1等駅が今や一介の通勤・通学駅に落ちぶれている様をみるとき、筆者には北海道の小駅と同じような強い哀愁を感じるのである。


2.門司駅の沿革

(1) 門司駅の歴史

 門司駅は、"九州鉄道大里駅"として現・門司港(旧・門司)駅と同時(明治24年4月1日)に開業した。当時の駅舎位置は現在より500mほど下関寄りで、駅長配置もなく旧・門司駅長が駅務を管轄したという。ちなみに、"大里(だいり)"という地名は壇ノ浦に入水したとされている安徳天皇の"内裏(だいり)"が、かつてこの辺りに設けられた(実は生存していた)という伝説からきている。やがて"大里機関庫(区)"などの重要施設が置かれたものの、昭和初期までは現・門司港(旧・門司)駅の影に隠れて目立たない小駅だったが、太平洋戦争の最中に"関門トンネル"が完成するとにわかに九州の玄関口として脚光を浴びるようになり、昭和17年4月1日に"門司"駅と改称された。しかも、3ヵ月後の17年7月(トンネル正式開通時)には東京・京都・大阪に次ぐ4番目の「特別1等駅」に指定され、全国有数の大駅に躍進。戦後は昭和27年3月に民衆駅第1号として新駅舎(3代目)が完成し全盛期を迎えるが、関門国道トンネルの開通(昭和33年3月)、5市(門司市・小倉市・戸畑市・八幡市・若松市)合併による北九州市の誕生(昭和38年2月)に加えて、昭和50年3月の新幹線岡山―博多間開通により隣の小倉駅に九州の玄関口としての地位を完全に奪われるようになる。また、昭和60年10月には駅前を走っていた西鉄北九州線(門司―砂津間)が廃止され、代替バスの充実、マイカーの普及なども相まって乗降客が漸減し、平成16年3月には3階建ての橋上駅舎(4代目)が完成したものの駅勢の挽回はならず、門司駅に停まる急行列車・寝台特急の廃止などもあって、現在では完全に普通の都市型通勤・通学駅へと変貌を遂げている。


(2) 門司駅の構成

 とにかく昔の門司駅の構内は広かった。国鉄末期頃(昭和62年/1987)で構内面積は"55.7ha(ヘクタール)"="東京ドーム"12個分の広さ、駅舎やホームなどの旅客関係施設はもとより門鉄局(門司鉄道管理局)に属する運転関係施設・工事関係施設の他に数十本の複雑な配線を有する広大な"門司操車場"を抱えて、"門司機関区・門司客貨車区・門司保線区・門司電力区・門司車掌区"など多くの組織が配置され、最盛期の駅員はなんと1500人にも達したという。しかし、国鉄はその後昭和39年頃より赤字経営に転落、膨大な累積債務を解決するためには組織の大幅な合理化が不可欠な情勢となり、昭和62年4月の国鉄民営化を機に門司駅構内の施設・職員も大胆に分割・整理され、門司客貨車区は200人から36人に削減されたうえで門司機関区に統合、門司機関区の730人の職員も250人に減らされて、このときから"JR貨物"の所有(19.8ha)となった。広大な操車場(19.4ha)も既に昭和61年11月には廃止されて不要となっていたため、"国鉄清算事業団"に移管され、その後売却されている。(その他、鉄道通信会社の分割持分が0.1haほどある。) 残る旅客ホームなど16.4haが現・JR九州の所有となり、民営化に伴い固有の駅員は一気に400人から約100人に削減されたが、その後もさらに駅員は漸減していると聞く。かつては、関門トンネルのために多くの急行列車・貨物列車が長時間停車を余儀なくされた関係で「4面8線」の長大なプラットホームを有していたが、列車本数の大幅削減や機関車交換不要な"交直両用電車"の普及により、既に昭和50年代には過剰なホーム施設を持て余すようになり、ついに平成14年頃北から2つ目の5・6番線ホームを撤去して旧7・8番線を5・6番線に改称、「3面6線」となって現在に至っている。なお、同じキロ程(営業キロ)にあるJR貨物門司駅は平成14年3月から"北九州貨物ターミナル"駅と改称されている。また、当駅構内の下関寄りに「デッドセクション」が存在することは鉄道ファンの間ではかなり有名。

※ 上記"ホームの撤去"については、"Wikipedia"などによると「平成14年頃/5・6番線ホーム」となっているようですが、"匿名様"によるとこれは間違いで、「平成15年6月に"7・8番ホーム"を撤去し、これにより門司駅は戸上山の方向に北が縮んだ」が正しいそうです。



3.最盛期の門司駅

 戦後間もなくの頃は、東京―門司間に長距離急行列車が設定され、首都圏・関西圏でも「門司行 FOR MOJI」というサボを付けた客車を見ることもできたはずだが、今では想像もつかない。門司駅の最盛期は昭和30〜40年代と思われるが、この時代にはほとんど"数分おき"に列車が発着し、広大なプラットホームは乗降客でごった返した。しかも、現在の門司駅と比べて中長距離の旅客割合が非常に高く、昔「喜劇・駅前○○(どのタイトルか不明)」(フランキー堺主演)という映画があったが、列車が到着するたびに大きな手荷物を抱えた旅行者が"どっと"地下通路を降りていく様は、まるで別の駅を見ているかのようだった。それもそのはず、当時は「門司停車・小倉通過」という今ではちょっと考えられない優等列車が設定されていたためである。関門トンネルは蒸気機関車の運行が不可能なため当初より直流電化されているのに対し、当時の山陽本線や鹿児島本線は未電化区間が多く、しかも本線のほうは交流電化されるので門司駅や下関駅でいちいち機関車を入れ換える必要があり、必然的に停車時間も長くなる関係上、門司駅を中心とするダイヤを組まざるを得ないという背景があったものと思われる。当時でも小倉のほうが人口は多く賑やかではあったが、特に寝台特急は大部分が「門司停車・小倉通過」の扱いだったため、当駅で乗り換えを強いられる長距離旅客が非常に多かったようだ。

※ 上記「寝台特急の門司停車・小倉通過」の扱いについては、「下関・門司・小倉と3駅連続停車によるタイムロスを防ぐ理由に加えて、当時は郵便・新聞・荷物の積みおろし、食堂車の食材やお土産の積み込み、飲料水・トイレのタンク注水作業などのため、どうしても門司駅に停車する必要があった」ことを"匿名様"よりご指摘を受けました。

門司着 門司発 方向 種別 列車名 始発 行先 備 考
0001 0006 上り 急行 霧島 鹿児島 東京 ハネ連結
0012 0016 上り 急行 第2日向 南延岡 大阪 運休中
0112 0118 下り 急行 しろやま 新大阪 西鹿児島 ロハネ連結
0320 0341 下り 急行 九州観光団体専用 東京 長崎 ハネ連結
0326 0428 下り 急行 九州観光団体専用 東京 大分 ハネ連結
0328 0334 上り 急行 しろやま 西鹿児島 新大阪 ロハネ連結
0437 0444 下り 急行 桜島 大阪 西鹿児島 運休中
0527 0533 下り 急行 霧島 東京 鹿児島 ハネ連結
0611 0619 下り 急行 日向 京都 都城 ハネ連結
0614 0615 下り 準急 第2火の山 門司港 別府 ロ連結
0617 0627 下り 急行 ひのくに 新大阪 熊本 ハネ専用
0637 0644 下り 急行 雲仙・西海 東京 長崎・佐世保 ハネ連結
0708 0715 下り 急行 玄海 京都 長崎 ハネ連結
0724 0731 下り 急行 はやとも 大阪 博多 運休中
0731 0742 上り 急行 さつま 鹿児島 名古屋 ハネ連結
0735 0741 下り 急行 天草 京都 熊本 ハネ連結
0756 0759 上り 準急 しんじ 博多 宇野 ロ連結
0801 0812 下り 急行 平戸 大阪 佐世保 ハネ連結
0814 0818 下り 特急 さくら 東京 長崎 小倉通過
0817 0822 上り 特急 はと 博多 新大阪 小倉通過
0830 0835 下り 急行 第2日向 大阪 南延岡 運休中
0845 0846 上り 準急 ながと 小倉 広島 ロ連結
0858 0905 下り 急行 阿蘇 名古屋 熊本 ハネ連結
0921 0926 下り 急行 第2玄海 大阪 長崎 運休中
0931 0942 下り 急行 高千穂 東京 西鹿児島 ハネ連結
0952 0957 上り 特急 つばめ 博多 新大阪 小倉通過
1002 1006 下り 特急 みずほ 東京 熊本 小倉通過
1012 1016 下り 特急 あさかぜ 東京 博多 小倉通過
1031 1042 上り 急行 つくし 博多 大阪 ロ連結
1040 1044 下り 特急 はやぶさ 東京 西鹿児島 小倉通過
1056 1100 下り 特急 富士 東京 大分 小倉通過
1101 1106 下り 準急 あきよし 石見益田 博多 ロ連結
1117 1117 上り 準急 ひまわり 大分 別府 ロ連結
11** 1137 上り 準急 あさぎり 天ヶ瀬 門司港 ロ連結
1148 1151 下り 急行 べっぷ 広島 別府 ロ連結
1203 1205 上り 準急 やくも 博多 米子 ロ連結
1216 1219 下り 急行 出島 長崎 ロ連結
1237 1237 上り 準急 くまがわ 人吉 門司港 ロ連結
1246 1247 下り 急行 にちりん 門司港 西鹿児島・熊本 ロ連結
12** 1252 下り 準急 あさぎり 門司港 由布院 ロ連結
1309 1310 下り 急行 山陽 岡山 博多 ロ連結
1316 1316 下り 準急 くまがわ 門司港 人吉 ロ連結
1*** 1413 上り 準急 はんだ 由布院 門司港  
14** 1440 下り 準急 日田 門司港 由布院  
1503 1504 上り 急行 山陽 博多 岡山 ロ連結
1613 1618 上り 準急 あきよし 博多 石見益田・浜田 ロ連結
1619 1620 下り 準急 やくも 米子 博多 ロ連結
1641 1644 上り 急行 出島 長崎 ロ連結
1651 1653 上り 急行 べっぷ 別府 広島 ロ連結
1710 1711 上り 急行 にちりん 西鹿児島 門司港 ロ連結
1737 1741 上り 特急 あさかぜ 博多 東京 小倉通過
1739 1740 下り 準急 ひまわり 門司港 大分 ロ連結
1809 1815 下り 急行 つくし 大阪 博多 ロ連結
1815 1819 上り 特急 はやぶさ 西鹿児島 東京 小倉通過
1904 1914 上り 急行 阿蘇 熊本 名古屋 ハネ連結
1926 1930 上り 特急 さくら 長崎 東京 小倉通過
1951 1955 上り 特急 富士 大分 東京 小倉通過
1954 1955 下り 準急 長門 広島 小倉 ロ連結
1956 2003 上り 急行 はやとも 博多 大阪 運休中
2004 2010 上り 急行 雲仙・西海 長崎・佐世保 東京 ハネ連結
2019 2024 下り 特急 つばめ 新大阪 博多 小倉通過
2032 2050 上り 急行 九州観光団体専用 長崎 東京 ハネ連結
2038 2050 上り 急行 九州観光団体専用 大分 東京 ハネ連結
2103 2104 下り 準急 しんじ 宇野 博多 ロ連結
2103 2108 上り 急行 日向 都城 京都 ハネ連結
2106 2113 上り 急行 平戸 佐世保 新大阪 ハネ連結
2109 2121 下り 急行 さつま 名古屋 鹿児島 ハネ連結
2126 2135 上り 急行 玄海 長崎 京都 ハネ連結
2134 2139 下り 特急 はと 新大阪 博多 小倉通過
2210 2224 上り 急行 高千穂 西鹿児島 東京 ハネ連結
2214 2229 上り 急行 天草 熊本 京都 ハネ連結
2221 2222 上り 準急 つるみ 大分 門司港 ロ連結
2255 2304 上り 急行 ひのくに 熊本 新大阪 ハネ専用
2326 2331 上り 急行 桜島 西鹿児島 大阪 運休中
2336 2341 上り 急行 第2玄海 長崎 大阪 運休中



左: 門司駅に停車する優等列車(昭和39年10月頃)。実際には、これに普通列車が加わるため、まさに"ひっきりなし"という言葉が相応しい。(但し、停車本数だけをみれば、むしろ昭和40年代後半のほうが多いことに注意。)

[特急13本 ・ 急行44本 ・ 準急18本]

ハネ: 2等寝台車
ロネ: 1等寝台車
ロ: 1等座席車
※ 但し、ネ(寝台車)連結の列車は、概ねロ(1等座席車)も連結していた。

上: 昔は中長距離の乗換客で賑わったターミナル駅型の広いコンコース(昭和61年頃)。当時は駅舎(3代目)の2階に喫茶軽食コーナーがあった。左手に"旅行案内センター"の表示も見える。



右: 正面(南口)改札口(昭和61年頃)。当時は各ホームが地下通路で連絡されており、長い直線通路の突き当たりにやや小さめの北改札口(簡易出札口)があった。(現駅舎では改札口が3階(1・2階は商業施設)に移動したため、逆に"上からホームに降りていく"感じになる。) 地下通路階段の上部には、中長距離旅客が多かった時代に作られた立派な"観光マップパネル"がそのまま掲げられていた。また、右手の"お忘れもの承り所"辺りに、昔は"門司鉄道公安分室"があったものと思われる。



左: 1・2番線ホーム地下通路の入口付近で旅客の問い合わせに答えるホーム専従職員(昭和61年頃)。赤い旗を持って出発の合図などを行う安全関係の立哨配置は、九州内ではもともと大きな駅に限られており、門司駅の場合4面のホームすべてに詰め所(中央付近)があってかなりの人員を割いていたが、疎らな乗降客に"時代錯誤"(どう考えても不要)の感は免れず、旧門鉄局管内ではこの後間もなく小倉・博多など極一部の駅を除いて全廃された。



右: 5番線で寝台特急「富士」の到着を待つ"EF81形"(EF81 303)電気機関車(昭和60年頃)。"塩害"防止のためステンレス製車体を採用しており、関門トンネルを抜けたら下関駅まででもう"お役御免"となる。



左: 駅前の国道3号線を走っていた西日本鉄道北九州線の路面電車と"門司駅前"電停(昭和60年頃)。門司―砂津間は昭和60年10月に廃止されたが、実際には便数も乗降客もそこそこあり、利用客の減少に加えて渋滞緩和など交通対策に因るところが大きかったと思われる。

※ 西鉄路面電車の廃止について、"匿名様"は"車両の使用期限が迫っていたこと"を最大の理由に挙げておられます。「西鉄はひそかに北九州線を廃止するために、運転士の新規採用を何十年もの間行わず、車両も確か昭和32・33年頃製造の300番台が最新で、あとは戦後すぐのものばかりという"化石"ばかりを走らせていました。それでいて全国で廃線になった車両を購入したりもせず、ましてや新車を発注することもなく、廃止のタイミングを見定めていたのです。」 面白い裏話をありがとうございました。



4.さびれゆく門司駅

 昭和39年に山陽本線が完全電化され、昭和43年10月のダイヤ改正から急行・特急列車が大増発されたものの、機関車交換不要な"交直両用電車"による運転が主体になるにつれて、優等列車のほとんどが小倉駅のほうに停車するようになり、門司駅の重要性は急速に失われていった。加えて昭和50年3月には山陽新幹線が博多駅まで延長されて、新たに新幹線小倉駅が開業すると、東京・大阪方面からの長距離旅客が門司駅で乗り換える必要がなくなり、あまつさえ山陽本線の急行・特急列車が大幅に削減されて在来線ダイヤに余裕が生まれた結果、小倉駅にもすべてのブルートレインが停車するようになって、ますます門司駅を利用する中長距離旅客がいなくなってしまった。この頃には、門司港地区の衰退にも拍車が掛かり、日銀をはじめ主要企業の北九州支店が小倉に移転する一方、"大本山"とも言える"国鉄九州総局"の移転話まで浮上。結局、地元の反対もあって九州総局自体は門司区に残ったものの、合理化のため昭和60年3月には"門司鉄道管理局"が九州総局に吸収される形で廃止されてしまい、かつて九州北部全域と本州の一部までを管轄した"門鉄"の栄光は完全に過去のものとなった。そして、昭和末期にはわずかに残る普通急行列車も相次いで廃止されたため、門司駅に停車する優等列車はほとんど「九州と東京・大阪方面を結ぶ寝台特急」だけ(厳密には他に夜行急行「かいもん」「日南」と門司港始発着の九州内L特急1〜2本程度)となり、しかもこれらのブルートレインは両隣の小倉・下関にも停車するため、門司駅で乗降する旅客はどうしても疎らにならざるを得ず、「門司駅の運転停車は必要なのでついでに旅客扱いもしておく」というのが実態であった。この頃、普通列車も含めた門司駅の1日当りの乗車人員は統計をとるたびに下がってゆく一方で、昭和60年頃に1万人の大台を切ったのを皮切りに毎年わずかずつ漸減し、昭和62年は8500人、平成12年頃には7000人を切り、駅舎が改築された平成16年頃からは6000人強で、漸く"下げ止まり"の気配が出てきた。しかし、戦後、住宅地開発が進んだ戸畑区や八幡西区の近郊駅(黒崎・戸畑・折尾など)に比べるとわずか"数分の一"という有様で、昔日の面影は見るべくもない。寝台特急が大幅削減されたのを機にホーム1面を撤去して「3面6線」のホームに縮小したものの、それでも朝夕を除くとホームの人影は疎らで、短く手狭なホームをなんとか"やり繰り"する戸畑駅や黒崎駅とは対照的な違いを見せている。



右: 交通公社の時刻表・昭和47年3月号。門司駅には全く停車しないのに、なぜか往年のままに"大書き"された在来特急早見表(付録)。昭和30年代までは、山陽本線の「つばめ」「はと」などの電車特急も下関以西ではEL牽引のため、特急の大部分は「門司停車・小倉通過」の扱いだったが、昭和40年10月頃より交直流電車の導入により九州内も自力走行が可能となり、この頃にはすべて「門司通過・小倉停車」に入れ替わっている。また、寝台特急についても、昭和43年頃から「月光」「明星」「金星」などの"小倉停車型"の座席車兼用寝台電車(583系)が出現し、それ以外はかろうじて「門司停車・小倉通過」が維持されたものの、昭和55年10月(?)のダイヤ改正からはほとんど全ての列車が小倉駅にも停車するようになった。しかも、その頃から寝台列車に対する需要が減少、昭和55年10月改正で九州と関西方面を結ぶブルートレインが大幅削減されたのを手始めに運転本数が漸減し、ついには「さくら・はやぶさ」「彗星・あかつき」などの併結列車まで出現、平成21年3月のダイヤ改正で最後まで残った「はやぶさ」「富士」も廃止されて、とうとう門司駅に停まる優等列車はほとんどなくなってしまった。平成23年8月現在、門司駅に停まる特急列車は門司港―博多間の「きらめき」だけで、しかもわずか1駅区間の上り・門司港行(7本)を除けば、実質的に早朝5〜7時台の下り3本のみである。(急行列車は既に全廃されている。)



左: 今はなき旧6番線ホームに進入する上りブルートレイン(列車名は不明/昭和58年頃)。この頃には「門司駅で乗降する旅客がゼロ」ということも珍しくはなく、この日も東京・大阪方面に出張するサラリーマンと思しき男性客が1人だけ。列車のドアが開く音、連結部が軋む音の他は静寂に包まれ、ひと気のない広大なホームに「もじ〜 もじ〜」というアナウンスだけが虚しくこだましていた。

★ ほとんど"ひと気"のない門司駅6番線ホームに進入する上り・寝台特急「富士」の晩年の車窓(AVI動画65秒)"fuji.avi"(35.8MB) (今は懐かしい列車到着時の"肉声"構内アナウンスや発車ベル、車内放送のチャイム"ハイケンスのセレナーデ"も併せてお楽しみ下さい。)



右: 地下通路の壁に掲げられていた山陽・山陰本線上り行灯式発車時刻表(昭和58年頃)。既に優等列車の影は薄く、山陰本線の急行「さんべ」(6号を除く)「あきよし」も九州内区間は快速化されたため、わずかに寝台特急だけがポツリポツリと残る程度だった。「5:22始発 福知山行」(824レ)は当時国内で最長距離を走る鈍行列車だった(終点・福知山着は23:50頃)。

左上: 1・2番線ホームから駅構内を望む(昭和61年頃)。かつては長距離旅客で賑わったプラットホームも今は人影も疎ら。年季の入った鉄骨梁とホームに設置された"洗面台"が往時を偲ばせる。

右上: 「ホームのベルが鳴らなくなる」ことを周知させる文書(昭和61年10月頃)。大きな駅だけと思いきや、雁ノ巣・酒殿・上三緒・下鴨生など意外に小さな駅も含まれていて興味深い。


※ その後、筆者と同様、門司駅に強い愛着を持っておられる石田様からメールを頂き、たくさんの貴重な門司駅関係画像や筆者が知らなかった裏話等を頂戴しましたので、ここにまとめてご紹介致します。石田様、本当にありがとうございました。



左/下: 今はなき門司駅の構内地下通路。規模も含めて構造は基本的に小倉駅と同じだったが、晩年はなんとなく照明も暗く、旅客も比較にならないくらいに少なくなってしまったため、日中でも閑散として寂しかった。往年はこの通路一杯に長距離旅客でごった返していたことを思うと、まさに隔世の感がある。下中央は最晩年の北改札口の様子。
 



左: 往年の賑わいを感じさせてくれる1・2番線ホームの"立ち食いうどん屋"。今も健在で、石田様によると、門司駅長代々の"申し送り"事項として「うどんを食べに行きたい」と申告すれば入場券なしで改札内に入れてくれたとのこと。懐かしい味を守ろうという心意気が感じられる。やはりホーム上にあった売店(キヨスク)のほうはかなり以前に廃止されてしまったという。

※ 門司駅(改札内)のうどん屋と売店(キヨスク)は、少なくとも昭和60年頃まで3・4番ホーム(キヨスクのみ)と廃止された旧5・6番線ホーム(長距離列車用)にもあったことがわかっています。



左: 門司駅をブルートレイン(「はやぶさ・富士」)が発着する最晩年の様子。やはり乗降客はほとんどいない模様。



左: 1970年代後半の門司駅構内(操車場、機関区)を撮った空中写真。往年(SL時代)を偲ぶ広大なヤードと見事な"扇形車庫"が確認できる。


左: 石田様所蔵の"門司鉄道郵便区"及び"門司鉄道荷物区"時代のサボ。昔はこれらを付けた郵便車(オユ/スユ/マユ)や荷物車(スニ/マニ)などが長時間門司駅に停車する風景が見られた。 



左: 旧門司駅構内にあるJR貨物・北九州貨物ターミナル駅。北九州市における鉄道貨物の取扱分散化の目的で平成14年3月にJR貨物・門司駅を改称したものだが、当初は「門司貨物ターミナル」とする予定だったという。この辺りにも「門司」の退行が垣間見れて寂しい。 

 さらにその後、石田様から再度メールを頂戴し、門司駅全盛期の鉄道郵便業務に関する貴重なお話を伺いましたので、改めて紹介させて頂きます。
門司駅に乗客用地下コンコースがあった事は既に記載されておられますが、乗客用とは別に荷物(郵便)用の専用地下通路が門司駅には存在しました。門司駅を後ろにすると右手(小倉側)方向に、門司郵便局が今も現存します。まだ鉄道郵便が華やかしき頃、関東、関西方面から、或いは門司(門司港)から九州各地への列車には、郵便車が連結されていましたが、必ず下りでは博多側に繋いでいました。これは駅の構造に由来するものであり、郵便運搬用の業務用エレベーターが下り列車では先頭方面にあった為です。門司駅も例に漏れず、その様な施設配置となっております。関東、関西等から着いた鉄道郵便はまず門司郵便局に集められ、そこから九州各地へ向う列車に振り分けられていました。膨大な量の郵便になる為、門司駅とは業務用エレベーター、地下通路で門司郵便局は繋がれていました。
 門司郵便局は今も集配を行う局であり、地下室も稼働中である為、画像は頂けませんでした。橋上駅となり、鉄道郵便も廃止となったために今は埋められていますが、門司郵便局地下には通路の遺構があるとの事。小倉郵便局より敷地が広いのは、上記理由に依るとの事です。小倉郵便局は駅前から移転し再開発地区となる事が先日報道されました。この話は門司郵便局OBの方からお聞きしました。

.....鉄道郵便事業(国鉄)においても、門司駅がいかに重要な地位を占めていたかがわかる貴重なお話でした。石田様、今回も興味深い情報をありがとうございました。この場をお借りして、改めて深く御礼申し上げます。



5.門司駅関連の乗車券類

 門司駅関係の乗車券類は、幹線区間の主要駅ということもあって発行枚数が非常に多く、コレクターの所蔵品も頻繁に放出されるため、比較的研究は容易である。以下、筆者の承知する範囲で"硬券"を中心に紹介するが、この他に珍しい券や何か情報をお持ちの方は是非ご一報頂きたい。



左: 昭和61年頃の正面(南口)出札口。昔は膨大な数の硬券を設備していた出札口の大半は閉鎖され、替わって右側に5台の"100km対応自動券売機"が設置されたが、左側に2ヶ所だけ窓口が残っていた。このうち右側の[2]出札窓口には、この頃まだ"硬券"が残っていた可能性が高い。

※ 門司駅の"出札窓口"(位置・番号など)について、やはり"匿名様"より以下のような貴重なご指摘を受けましたので訂正致します。
「門司駅の出札窓口は、もともとこの位置に左から1・2・3・4・5番と並んでいました。それが昭和50年3月1日に門鉄主要駅に券売機が設置された時期に3台新設され、以後、券売機の数はこの駅舎が取り壊されるまで同じ数だったはずです。ですから、数え方は有人窓口のうち、右側が1番、券売機が2・3・4番、"みどりの窓口"と後の"旅行センター"が併せて5番、裏口が6番です。2番窓口横の"みどりの窓口"で指定券を頼むと、駅員さんが左に歩いていき、そこにある端末から券を出していました。旅行センターの機械から出すのなら、この窓口は要らないのでは?と思っていましたら、その後やはり消えてしまいました。また、券売機の左側にあったこの旅行センターはその後、待合室を廃止して改札口の右側に移動しました。」

(1) 普通乗車券

@ 門司駅発の券

 近距離区間は他の駅と同様、昭和40年頃までは最初A型からB型の「一般式」、後にB型「矢印式」・B型「地図式」、昭和40年代はB型「地図式」とB型「矢印式」及びB型「一般式」が併用されていたのは間違いない。中・長距離区間は、概ね「一般式」だったと思われる。また、「地図式乗車券のすべて」によると門司駅に自動券売機(スミインク式)が初めて設置されたのは昭和43年の秋頃で、九州内では博多駅・久留米駅などと共に最も早く、概ね低額は「金額式」、高額と着駅7駅以上は「地図式」だったという。但し、当時は券売機が設置されたからといって対応する区間の硬券の口座が即廃止されるとは限らず、現に実例もあるため、近距離券も引き続き"窓口売り"されていたと考えられる。ついで昭和50年頃にはキレート式の新型自動券売機(金額式)も導入された模様だが、すべて"50kmまで対応"の機種だったため、中・長距離区間に関してはその後も硬券の口座が残っていたのは確実。(多くはやはり「一般式」だった。また、正面口(南口)の近距離券はこの頃(昭和50年3月1日)にすべて軟券化されたと思われる。) その後、"100km対応"の最新型自動券売機(金額式)が設置されたのは恐らく昭和58年頃とみられ、これに伴い50〜100kmの中距離区間(B型赤地紋)も硬券が廃止されたが、100km以上の長距離(A型青地紋)についてはなお暫くの間は口座が残った模様。しかし、昭和末期以降いつの頃か不明だが、自動券売機のすぐ左にあった出札窓口([2]など)も閉鎖されてしまい、長距離券・料金券・指定券類はすべて左奥にあった「みどりの窓口」(門司駅旅行センター)に集約されたため、これ以降正面口(南口)では硬券が全廃された可能性が高い。
 なお、門司駅北口では比較的最近(少なくとも昭和末期?)まで自動券売機が設置されなかったため、硬券の入場券の他、少なくとも近距離区間の乗車券(硬券)も発売されていた。北口の出札窓口がいつ頃からあるのか、昔から発売する券の種類や口座数が変わっていないのか、興味深いが詳細は不明。また、この間硬券に印刷される窓口番号も[3]?->[6]->[5](民営化後)と変化している模様。その後、北口でも平成7年に硬券が廃止される一方、自動券売機も設置されて、さらに平成16年には3階建ての新・橋上駅舎が完成したため、出札口自体が消滅したものと思われる。

※ その後、当駅に非常に詳しい匿名様からメールを頂き、本ページの誤りについてたくさんのご指摘と新情報を頂戴しました。本当にありがとうございました。上記の北出札口(裏口)については、以下のような貴重なお話を入手できましたので、ここにまとめてご紹介致します。

@ 裏口ができた経緯について
 「そもそも門司駅の場所はサッポロビールの土地で、関門トンネルが建設されることが決まると、大里駅を移動して新しくつくる門司駅の土地を鉄道省がサクラビールから購入したいきさつがあった。民衆駅になって裏口ができたのは、門司駅に近い中大門商店街の現在"丸和"がある場所に古くから幹部社宅と社員寮があり、ここからサッポロビール門司工場に社員が通勤できるようにするためだった。サッポロビールの社員は社員章を改札で見せるだけで通ることができた。」
A 裏口で発売された乗車券類について
 「(したがって、)切符を販売して営業するという意図はあまりなかったので、恐らく初めから門司港、下関、小倉程度の常備券しかなかったと思われる。昭和50年代の中頃、窓口氏に聞いてみたら、2・3種類の硬券乗車券と硬券入場券、あとは補充券、回数券、定期券だけだった。指定券は表口で買うように言われた。JRになって裏口の発行窓口が6番から5番になったのは、表口の有人窓口が1つ廃止されたため。」
B 自動券売機の設置時期について
 「裏口は国鉄時代に券売機が設置されたことはなく、JRになって7・8番ホームが撤去され、裏口が5・6番ホームの横に移動してきた平成14年8月3日に初めて設置された。(無人駅に設置してある銀色のタイプ) これは、当時裏口の駅員さんにいつ窓口が移動するのかを事前に聞き、(券売機だけになってしまう心配もあったため)確認をとったので間違いない。しかも、券売機を設置しているところも実際に見た。」
C 裏口の閉鎖時期について
 「裏口が閉鎖されたのは、駅舎が新築された平成16年3月29日で間違いない。(しかし、券売機の撤去のほうが少し早かった。) 5・6番ホーム横に移動してきてからは硬券はなく、すべて簡易委託のペラ券だった。最終日の券は私が持っているものが最後で、私が直接購入した後、駅員さんが窓口を閉めて出て行ったことも確認した。」


左: 門司駅発行のA型「一般式」最低運賃片道乗車券(昭和29年発行)。券番のフォントにも注意。この券は、恐らく門司駅設備の口座の中で最も"請求->売り切り"の回転が早い乗車券と考えられるため、門司印刷場における"券番字体"の変更時期を推し量る資料ともなる。


左: 門司駅発行のB型「矢印式」最低運賃片道乗車券(昭和35年発行)。券日付の前日から等級改正が施行されているはずなので、旧3等券をそのまま2等券の扱いで発売したものか。この後、門司駅では昭和36年4月の運賃改正で最低運賃区間が20円になったのを機にB型「地図式」(左下: 模擬券)が採用され、昭和44年5月の"等級制"廃止後は再びB型「矢印式」(右下: 模擬券)に戻ったものと思われる。

※ その後、ネットオークションでこれと全く同様式(B型「矢印式」)の新2等券(青地紋)を見つけました。国鉄の等級改正(旧3等→新2等)は昭和35年7月1日からですので、発売期間が非常に短く(9ヶ月間)、稀少と思われます。


 門司駅発行の最初の「地図式」は下関と門司港の間が波線("関門航路"を表している)で結ばれたかなり珍しいもの(左上)で、「地図式乗車券のすべて」によると、発売を開始して間もなく「この券では関門航路に乗船できない」ことに気付き、波線を途中で切断した図柄(左)に改められたという。波線が繋がったものは発売期間が極めて短い(せいぜい数ヶ月か)ため、他の券の数倍の値段で取り引きされている模様。


 なお、上記はすべて"最下等"の乗車券に関するもので、旧1・2等券や新1等券については資料がほとんどなく、様式も設備状況もよくわからない。ただ、「門司から下関ゆき」(左: 模擬券)というわずか1駅区間の新1等常備券(A型緑地紋一般式)が見つかっていることから、D型の補充券・準常備券だけでなくA型の常備券もかなりたくさん設備されていた可能性は高い。


※ その後、上記「門司から下関ゆき」(新1等券)の実券を入手できました(左)。あまり売れるとは思えないので、券番(0121)は賃改からのトータルの発売枚数かもしれません。(5.あまり売れそうもない切符の話題参照) "門司印刷"では、近距離区間でも1等券はすべてA型で作製されたようです。


左: 門司駅発行のB型「矢印式」片道乗車券(昭和47年発行)。乙片の表記が縦型から横型に変更されているが、駅名部分の文字が小さい。(過渡的な様式とみられる。)


左: 「門司から小野田 宇部ゆき」片道乗車券(昭和48年発行)。"発売当日限り有効"の"B型青地紋一般式"。B型券で着駅2駅併記の場合は「下車前途無効」が裏面に廻り、なぜか「ゆき」のフォントが"ゴシック体"となる。


左: 「門司から箱崎 博多 竹下間ゆき」片道乗車券(昭和44年発行)。モノクラス制に移行直後のものだが、基本的には晩年の長距離券の様式と大差ない。(但し、昭和55年4月以降は100km以下の区間がすべて"発売当日限り有効 下車前途無効"とされたため、この乗車区間は"B型赤地紋"の中距離様式に変更となった。)


左: 「門司から膳所 草津 野洲間ゆき」片道乗車券(昭和47年発行)。上記の券とほぼ同時期のものだが、微妙にレイアウトや乙片の記載様式が違っている。


左: 「門司から富海 徳山間ゆき」片道乗車券(昭和56年発行)。「発売日共2日間有効」の長距離券で、"A型青地紋一般式"。[1]出札窓口でも、昭和56年頃までは硬券の口座が残っていたことがわかる。


左: 「門司から肥前麓 神埼間ゆき」片道乗車券(昭和61年発行)。[2]出札窓口では、昭和58年頃まで確実に"B型赤地紋一般式"の中距離券も設備されていたが、もうこの頃には既に廃止されていた。(券をお持ちの方は是非画像をお譲り下さい。)


左: 「門司から大阪市内ゆき」片道乗車券(見本券)。門司乗車券管理センター(旧・門司印刷場)が「開設100周年記念」で復刻した模擬硬券の1つで、出札窓口番号等は入っていないものの、3等制が廃止となる昭和35年7月頃まで実際に設備されていたものである可能性が高い。("3等券"は乗車距離に依らず全て"赤地紋"。また、当時はまだ「門司市」だったので、「門司から」という表記で間違いない。) 余談ながら、逆に大阪駅には2等制時代に「大阪市内から門司ゆき」という"1等"常備券(A型緑地紋)があったことが判明している。


左: 「北九州市内から神戸市内ゆき」片道乗車券(昭和48年発行)。昭和47年9月から北九州地区が"特定都区市内制"の対象となり、201km以上の長距離券は「門司から」ではなく「北九州市内から」となった。


左: 「北九州市内から東京都区内ゆき」片道乗車券(昭和52年発行)。この間に、裏面の"但し書き"の書式が変更になったことがわかる。


左: 「[九]北九州市内から大阪市内ゆき」片道乗車券(見本券)。門司乗車券管理センターが「開設100周年記念」で作製した模擬硬券で、上記の「門司から大阪市内ゆき」と対を成すJR様式だが、時期的にみて、この券が実際に設備されたかどうかはかなり微妙。

※ "匿名様"は民営化されて間もなくの昭和62〜63年頃に何回か門司駅の旅行センターで「硬券の乗車券がない」ことを確認されており、この種の硬券は絶対に実在しないと断言されています。


左: 門司駅発行の「金額式」片道乗車券(昭和55年発行)。時期的に、正面口(南口)で近距離乗車券(硬券)を発売したとは考えにくいのだが、窓口番号が[3]となっているのも解せない。可能性としては、@当時は北口の出札窓口番号が[6]ではなく[3]だった、A当時は正面口(南口)に[3]窓口があり、まだ近距離券の口座も残っていて旅客の求めがあれば売ってくれた、B多客時の臨時発売の券 などが考えられる。しかし、@Aの線はちょっと微妙で、この時期[3]の表示は他にほとんど実例もないことから、意外とB辺りが真相かもしれない。

※ その後、同じ"匿名様"より、この券が発行日付(55.-5.25.)から"門司みなとまつり"の臨時券であることを教えて頂きました。当時、改札口の前にテーブルを出して門司から門司港ゆき、門司港から門司ゆき、小倉ゆきの切符を臨時に販売したのだそうです。ただ、なぜ"3番窓口"なのかはよくわからないとのことでした。


左: 門司駅(北口)発行の「金額式」片道乗車券2種(昭和62年発行)。いずれも分割民営化直後の"過渡期"の様式(「JNRこくてつ]地紋)で、左では出札窓口の表示(以前は[6])が一時的に中止され、その後間もなく[5](右)で復活しているのがわかる。

※ やはり"匿名様"よりご指摘あり、左側の券も"門司みなとまつり"の臨時発売券とのことでした。("門司みなとまつり"は5月25日から5月5日に変更されて現在に至る。) したがって、左側の券は北口([6]出札窓口)で発売されたものではないようです。訂正致します。


左: 門司駅発行の「福岡市交"地下鉄1号線"経由」連絡乗車券(昭和58年発行)。"国鉄->(博多)社線(姪浜)->国鉄"という"通過連絡運輸"(【九州の連絡乗車券に関する考察】参照。)の常備券は比較的稀で、門司駅の場合はこの後間もなく"北口"を除いて硬券が廃止されたため、発売期間も極めて短かったと思われる。乙片は単に「西唐」だけで、裏面にも出札窓口表示がなく、少し違和感を感じる。


左: 門司駅発行の「準常備式」片道乗車券(昭和32年発行)。"3等制"時代のやや古い時代のものだが、基本的な様式はその後もほとんど変わらなかった。(但し、地紋色だけは2等制以降"淡青色"に変更。)


左: 「[九]門司から下関ゆき」往復乗車券(平成4年発行)。裏面の窓口番号([5])からみて門司駅北口の簡易出札口で発売されたもののようだが、迂闊にも筆者は全く気が付かなかった。最近、某オークションで入手したもので、他に「小倉」往復などもあった模様。発売日付("盆"期間中)から推測して、常備ではなく臨時発売の券だった可能性もある。

A 門司駅着の券

 門司港―門司間及び門司―小倉間が共に5.5km、門司―下関間が6.3kmと離れているうえに4駅とも主要駅のため、昔から"単記一般式"の「○○から門司ゆき」という常備券を設備している駅が割合に多かった。凡そ50km未満の近距離区間は、九州総局管内(門司印刷場)では昭和40年頃までは概ねA型からB型の「一般式」またはB型「矢印式」・B型「地図式」、昭和40年代はB型「地図式」・B型「矢印式」・B型「一般式」が併用されていたが、昭和50年3月1日以降はほとんどすべてB型「金額式」に変わったため、近年の近距離券(赤地紋)では「門司」という着駅表示は見られない。しかし、50km以上の中(赤地紋)・長(青地紋)距離区間では、その後も「一般式」(一部は「地図式」)が残ったため、"100km対応自動券売機"を設置していない比較的大きな駅でも「門司ゆき」の常備式硬券を置いている駅が多く見られた。


左: 「折尾から門司ゆき」片道乗車券(昭和29年発行)。3等制時代の近距離「一般式」の様式(A型赤地紋)。


左: 「三ノ宮から門司ゆき」2等片道乗車券(昭和33年発行)。3等制時代の上級乗車券(A型青地紋)で「To MOJI」及び「税2割共」の表記に注意。


左: 「枝光から門司ゆき」片道乗車券(昭和40年発行)。2等制時代の近距離「一般式」の様式(B型青地紋)。

上: 「門司港から門司ゆき」片道乗車券(昭和32年及び45年発行)。門司港駅では、昔から門司以外の同一運賃の着駅(鹿児島本線)が他に存在しなかったため、昭和50年3月頃に自動券売機が導入されるまで3等・2等・モノクラスと、一貫して「一般式」で設備されていたと考えられる。


左: 「門司港から門司ゆき」片道乗車券(昭和61年発行)。最近、某ネットオークションで偶然見つけたものだが、門司港駅には当時既に自動券売機が設置されているうえ、"門司印刷"では昭和50年頃から隣駅までなどの極近距離区間はすべて「金額式」に変わっているはずなので、なぜこのような券が存在するのか不思議。(同じ日付の券で、他に「門司港から門司ゆき(小児専用券)」「門司港から小倉ゆき」「同(小児専用券)」「門司港から戸畑ゆき」も出品されていた。) 門司港地区のイベントなど、何らかの理由で自動券売機が混雑する場合の"臨時用"とも考えられるが、それでも普通はやはり「金額式」ではなかろうか。(事情をご存じの方はご教示下さい。)

※ やはり"匿名様"よりご指摘を頂き、この券は"関門海峡の花火大会"に伴う臨時券であることが判明しました。"匿名様"も昭和59年5月5日に同じ券を購入したそうですが、なぜ"1番窓口"発行なのかはわからないものの、"一般式"で発売された理由については「たぶんものすごい数の人が乗るから下車駅の改札ですぐわかるようにしたのではないでしょうか」とのことでした。


左: 小倉駅発行のB型「矢印式」片道乗車券(昭和47年発行)。「矢印式」の中では比較的晩年の様式と思われる。

上: 「新飯塚から門司ゆき」「香椎から門司ゆき」及び「鳥栖から門司ゆき」片道乗車券(昭和60〜61年発行)。やはり、たまたま門司以外の着駅が他になかったために「単記一般式」で設備されたものらしい。鳥栖―門司間は、鹿児島本線経由ならば営業キロ102.3kmなので、本来は「発売日共2日間有効」の長距離券(A型青地紋)となるはずだが、"福岡近郊区間"の特例により、この切符で迂回乗車することが認められていた。(「旅客営業規則」第157条第2項。その代わり"発売当日限り有効・下車前途無効"となる。また、紛らわしいことに、乗車券には最短(運賃計算)経路を表示する規則なので、必ず営業キロ89.8kmの「筑豊線経由」と印刷される。) 実際、筑豊本線の原田―桂川間は運転本数が極めて少ないため、ほとんどの旅客はこの乗車券で鹿児島本線を利用したものと思われる。


左: 「東京都区内から門司ゆき」片道乗車券(昭和38年発行)。"東京印刷"の長距離「一般式」(A型青地紋)2等券で、今では考えられないが、昔はこのように本州の遥か遠方の主要駅にも常備券(単記式)があったという例。券番は"0128"で、まあそこそこは売れていた模様。


左: 「厚東から下関 門司間ゆき」片道乗車券(昭和56年発行)。"広島印刷"の中距離「一般式」(A型赤地紋)の例。この頃には、"門司印刷"の中距離券はほとんど"B型"に変更されていた。


左: 「箱崎から門司 門司港ゆき」片道乗車券(昭和61年発行)。"門司印刷"では、同一運賃の着駅が2つの場合は、原則として「間」の文字を入れない決まりだった(一部例外あり)。この箱崎駅を含め、九州総局管内では昭和61年11月から"100km対応"自動券売機を設置する駅が急増したため、これら"B型赤地紋一般式"の中距離券(硬券)は激減したものと思われる。


左: 「幸崎から門司 小倉 戸畑間ゆき」片道乗車券(昭和48年発行)。「小倉」が1字分飛び出しているのは、"分岐駅"であることを表現していると思われる。


左: 「神埼から八幡 小倉 門司間ゆき」片道乗車券(昭和61年発行)。本来は「八幡 門司間ゆき」の表記でよいはずだが、小倉下車の旅客が非常に多いため(分岐駅ということもあるが)、わざわざ「小倉」も加刷したと考えられる。100kmを超す長距離券は"A型青地紋一般式"で「発売日共○日間有効」(2日以上)となり、途中下車も可能なので、小倉で降りても改札口で「門司まで行く」と申し出れば合法的に券が手元に残る。


左: 「戸畑から門司ゆき」往復乗車券(昭和62年発行)。戸畑駅北口([11]出札窓口・平成11年廃止)は、当時まだ自動券売機が設置されていなかったので、たくさんの硬券が残っていた。その後、この券は[九]の新券も出て、平成7年の硬券廃止まで発売されたと思われる。


左: 左: 「今宿から(地下鉄1号線)・箱崎経由小倉 門司ゆき」連絡乗車券(昭和59年発行)。"国鉄->(姪浜)社線(博多)->国鉄"という"通過連絡運輸"で、常備券(B型赤地紋)は比較的珍しいと思われる。


左: 姪浜駅発行のB型「地図式」国鉄連絡乗車券(昭和62年発行)。福岡市交通局が"客扱い"を行っている筑肥線姪浜駅では、一時期左のような"地下鉄1号線"経由の国鉄連絡券(A型後にB型交通局赤地紋の硬券)を地下鉄線定期券売場で発売していた。残念ながら現在では、自動券売機対応の「金額式」(磁気エンコード式軟券)となっている模様。(【九州の連絡乗車券に関する考察】参照。)

 なお、JR券では民営化により下関以東が別会社となったため、JR西日本管内の隣接駅の一部で赤地紋一般式の「○○から門司ゆき」が数十年ぶりに復活した()。国鉄時代ならば「金額式」だった近距離区間にわざわざ口座を新設しなければならず、駅としては事務が増えて面倒だったろうが、切符マニアとしてはうれしい出来事であった。しかし、JR西日本でも平成5年頃にはすべての硬券が廃止されてしまったので、発売期間が極めて短かったのが残念。「門司ゆき」の常備券は綾羅木・黒井村の両駅の他にもたくさん設備されていたと考えられる。(【九州の連絡乗車券に関する考察】参照。)


(2) 料金券

 昔は多くの優等列車が停車したため、かつては準急行券・普通急行券・特別急行券・寝台券・指定席券・グリーン券など膨大な数の急行券類・指定券類(硬券/軟券)を発売していたが、昭和40年代をピークに少しずつ減少に転じたと思われる。特に硬券は、昭和50年代に入ると口座数・発行枚数共に激減し、小倉などから乗車の特急・新幹線関係(指定席特急券・自由席特急券・グリーン券等)を除くと、自駅からの乗車分では東京・大阪方面を結ぶ寝台特急関係(一葉式の特急券・寝台券や立席特急券)とわずかに残る急行関係(急行券と一葉式の急行券・指定席券及び急行券・寝台券)だけになってしまい、恐らく昭和60年頃を最後に、自由席特急券と急行券などの一部を除いて硬券は消滅したと考えられる。


左: 門司駅発行の3等特別急行券・寝台券(昭和35年発行)。指定券類は、門司印刷場でも昭和40年代前半までは"A型"で印刷されており、しかも"特別急行券"には朱色の縦条が3本加刷されて、切符マニアにとっては"芸術的"とも言える美しさがあった。(ちなみに、普通急行券は2本、準急行券は1本で、昭和33年10月以前はタテではなく"赤斜条"。) しかし、この"赤縦条"はその後間もなく(昭和40年10月)廃止され、さらに数年後には緑地紋のD型券に変更されている。


左: 門司駅発行の2等普通急行券(昭和40年発行)。"赤縦条"が加刷された最後期のもの。


左: 門司駅発行の特急券・B寝台券(昭和59年発行)。発行日付からみて硬券としては最晩年のものと思われる。この頃には、正面口(南口)の指定券類はマルス端末機の導入によりほぼ軟券化されており、券番が"0058"で券面に窓口番号の表記もないことから、何らかの理由(発行機の故障・端末機の交換等)で臨時に"予備の硬券"を使用したものと考えられる。

上: 門司駅発行の立席特急券(昭和54年及び56年発行)。"緑地紋"の指定券類(硬券)で最後まで残ったのがこの"立特"で、すべてD型常備式、最初の頃は乗車駅(門司)常備だった(左)が、昭和56年頃から概ね補充式(右)に変更されたらしい。一部の駅では乗車駅だけでなく下車駅や列車名まで印刷したもの(完全常備券)をよく見掛けるが、門司駅にはすべての寝台特急が停車するため、口座数を減らすために補充式で設備するのが妥当だったと思われる。立特はその性格上座席の指定はできないが、各駅で発売枚数を調整する必要があり、一応指定券類として"みどりの窓口"([5])で発売することになっていた。また、「着席できません。」の表記はあくまで規則に拠るもので、実際には空席があれば着席しても一向に構わなかった。


※ その後、筆者は昭和56年12月発行の立特を入手しましたが、なぜか乗車駅欄だけはまた常備式に戻っていました()。この間、「門司」のフォントもやや細身のものに変わっています。また、筆者の調べでは、"門司印刷"の立特(三角矢印式以降)は乙片の記号が
  昭和51年頃〜54年5月頃: 「立特」
  昭和54年5月頃〜56年?月頃: 「(立特)」
  昭和56年?月頃〜57年4月頃: 「(立特)」(但し括弧内は上下線で囲む)
  昭和57年4月(B特急料金設定)頃〜: 「B(立)特」(括弧内は円で囲む)
のように変化しているようで、左の様式の券は発売期間が最も短く、やや稀少なものと思われます。ちなみに、門司駅発行の"B立特"(D型硬券)もあった可能性は高いですが、筆者はまだ一度も目にしたことがありません。


※ さらにその後、昭和58年11月発行の"B立席特急券"も確認できました()。券番はかなり大きめ(3832)なので思ったより売れていたようですが、なぜか窓口番号がなく、どの出札口で発売されたものかはよくわかりません。時期的にみて、これが門司駅"立特"(D型硬券)の最後の様式と考えて間違いないようです。


左: 門司駅発行のB立席特急券(昭和60年発行/少し縮小表示)。門司駅の指定券類(硬券)が駆逐されていく中、せめて"立特"くらいは残っているだろうと思い、昭和60年5月に正面口(南口)の[1]出札窓口で実際に購入してみたところ、意に反してマルス端末の軟券が出てきてがっかり。しかも後で調べたところ、昭和60年前後から導入が始まったばかりの"M端末機"で発券されたものであることが判明。"予備の硬券"が残っていた可能性はあるが、たぶん"タッチの差でアウト"だったと思われる。

※ 余談だが、筆者は鉄道知識が中途半端なので、ときどき"大恥"をさらす。このときも、偉そうに「宇佐まで富士の"たちせきとっきゅうけん"を1枚下さい。」と言ってしまい、一瞬固まる"出札氏"。4秒後に「ああ〜。"りっせき"ですネ。」と返されて、おもわず赤面でした.....。


左: 戸畑駅発行の2等特別急行券・寝台券(昭和37年発行)。"2等制"時代のもので、地紋色は"淡青色"。


左: 八幡駅発行の2等特別急行券(昭和39年発行)。当時は「はやぶさ」などの寝台特急にも1〜2両の座席車(1・2等)が連結されていたので、特急券だけで乗車することもできた。また、寝台特急は小倉には停まらないので、やはり門司から乗車する他なかった。


左: 日本交通公社小倉井筒屋内営業所発行の1等特別急行券・寝台券(昭和39年発行)。"2等制"時代のもので、地紋色は"淡緑色"(裏面の英文に注意)。"井筒屋"は今もある東証1部上場の地場デパートで、小倉駅からは若干離れており、当時は施設内に交通公社の出張所があった。


左: 日本交通公社門司営業所発行の準常備式特急券・B寝台券(乗継)(昭和45年発行)。当時はまだ山陽新幹線の新大阪以西が未開通だったので、このような乗継割引券があった。門司駅にも当然設備されていたはずだが、常備式か準常備式かは不明。また、「(交)門司発行」の券はしばしば見掛けるが、調べても現在は「門司営業所」が存在しないようなので、所在地がよくわからない。(門司駅構内?それとも門司駅前近辺か門司港地区なのか? ご存知の方は教えて下さい。)

※ その後、筆者は昭和30年1月「(交)門司港発行」の「(交)門司港から門司ゆき」片道乗車券(上記の昭和32年発行「門司港から門司ゆき」(A型赤地紋)と全く同じもの)を見つけました。この頃に「(交)門司港」(日本交通公社門司港営業所?)が別に存在するならば、「(交)門司」はやはり門司駅近辺にあったと考えてよさそうです。


左: 小倉駅発行の特急券・B寝台券(昭和47年発行)。最も顕著な例で、なぜ門司まで行って乗り換えるのか、どうして特急が小倉に停まらないのか、不思議に思った旅客は多かったに違いない。また、この様式はその後昭和51年頃に再度変更されて、「乗車駅・下車駅」欄を簡単な"三角矢印"式で表示するようになった。

上: 門司駅発行の1等特別急行券・寝台券(昭和30年代後半頃の様式)。門司駅が"最も華やかなりし頃の象徴"で、残念ながら実は筆者が作成した"模擬券"だが、少なくとも「A下段」以下(4種)は実際に門司駅に設備されていたことがはっきりしている。「A個室」の券は日本交通公社門司営業所にはあったようだが、いずれにしても大珍品。もしオークションに出れば、相当な高値が付くものと思われる。


左: 門司駅発行の1等特急券(昭和43年発行)。"2等制"時代のもので、地紋色は"淡緑色"。この後、これらの指定券類はモノクラス制施行(昭和45年5月)を機にすべて"D型券"へ変更されたと考えられる。


左: (交)門司発行の2等列車寝台券(昭和38年発行)。"2等制"時代のもので、地紋色は"淡青色"。


左: 門司駅発行の2等座席指定券(昭和44年発行)。"2等制"時代のもので、地紋色は"淡青色"。


左: [九]門司駅発行の乗車整理券(ライナー券)(平成7年発行)。JR九州の"ライナー券"は、現在も手売りの大型軟券が一部の特急停車駅で発売されているようだが、硬券(A型赤地紋)は各駅とも一応この日付(7.-6.30.)が最終日。門司駅の正面南出札口で唯一最後まで残った硬券と思われる。"乗車整理券"の左端ダッチングは省略してもよい規則だったので、既にこの頃には[1]窓口の"日付印字器"はなくなっていた可能性が高い。


(3) 入場券

 昔は1等駅だったため発行枚数が非常に多く、比較的安価で入手できることもあり、近年の実例を挙げるには事欠かないが、さすがに"5円券"以前は現存数が非常に少なくて実態がよくわからない。(稀有な例では、他種の券を流用したと思われる門司駅の5円券(B型GJR青地紋)が「鉄道入場券図鑑」に掲載されている。) ここでは特に"10円券"以降に限って紹介してみたい。入場券の額面が10円になるのは昭和26年11月からだが、門司印刷場では5円券がほぼ"A型"だったことがはっきりしており、10円券も最初は"A型"で始まったが、門司など発行枚数の多い大駅では昭和30年頃から順次"B型"に切り換えられたと考えられる。(ちなみに、九州の国鉄駅では入場券に限り「旧券を売り切ってから新券を請求する」よう指示が出ていたらしく、地方ローカル線の小駅などでは昭和40年代に入ってもなお旧様式のA型券が発売されていたという。) 10円券までは"赤線入場券"の愛称が示す通り、中央に幅4mmほどの"朱帯"が加刷されているのが最大の特徴で、独特の風格があって、これを専門に蒐集する愛好家が多かった。(【"普通入場券"について】及び【プレミアの付く条件】参照。) 10円券は発売期間も長く、発行時期により多くの微妙なバリエーションが指摘されており、専門家によって非常に詳しく分類がなされている。また、"朱帯"が廃止される20円券以降も、小児断線の設定(30円券)、レイアウトの大幅変更(80円券)の他、やはり微妙な相違点も多数指摘されているが、あまりにも煩雑なのでここでは省略する。門司駅の場合は、発売枚数が多くて"請求->売り切り"の回転が比較的速かったと考えられるため、10円券から140円券までほとんどすべてのパターンが存在するのではないかと想像される。(但し、"流用券・赤線20円券・ミス券"などの特殊なものは除く。) なお、前述のように北口の出札窓口では比較的最近まで自動券売機が設置されなかったため、却って八幡・黒崎・折尾などの中規模駅が早々と"軟券化"されてしまう中、当駅では昭和50年代以降もずっと硬券の入場券が発売されていた。現存する60円券以降の硬入は、ほとんどすべてこの北口の簡易出札窓口で発行されたものと思って間違いない。


左: 門司駅の10円券(昭和41年発行)。「鉄道入場券図鑑」による分類では"10円門司5期"(最晩年の様式)で、赤線がやや薄いのも特徴。昭和41年3月5日より料金は20円になっているので、"料金変更"印を捺す決まりだが、なぜか省略されている。「C」はこの当時の出札窓口の表記法(アルファベット)で、この後間もなく四角枠の囲み数字(番号)に変更される。また、「る」は"循環符号"と呼ばれる管理記号で、(いろはの)「い」から始まり1万枚単位で循環して、発売枚数の統計をとるために加刷される。当然のことながら発行枚数の多い駅に限られており、門司駅の"C窓口"の場合「い」の"0001"がいつから発売されたかは不明だが、券番7482のこの券は、単純計算ならば"いろはにほへとちりぬる"と辿って107482枚目ということになる。結構すごい数である。

※ その後、オークションでこの券とほぼ同じ頃(41年2月)に隣の"D窓口"で発行された10円券を見つけましたが、別様式(10円門司4期)で、循環符号はなんと"そ"でした。("いろはにほへとちりぬるをわかよたれそ"と辿って17万枚以上?)

※ この問題についても"匿名様"より以下のようなご指摘を頂き、解決致しました。
「10円券の時代は発行窓口はすべてアルファベットです。管理番号は1万枚単位ではなく1千枚単位です。1万枚単位だったらどうして発券番号が4桁なんでしょうね。また昭和26年からなぜ主要駅だけ積算枚数を表示する必要があったのでしょう。10円時代は長いし様式も少しずつ変化していたので、私はこの様式で販売された枚数というように理解しています。ですから「C」窓口は3番窓口、「る」は17482枚目ということです。また、私のコレクションの中に門司駅10円券「G」窓口の「す」がありますが、「G」ということは7番窓口になるので、このころは窓口が7つあったのでしょうか?」 


左: 門司駅の20円券(昭和44年発行)。「鉄道入場券図鑑」による分類では"20円門司2期"。20円券では最晩年の様式で、間もなく額面が30円に上がったため、比較的発行枚数は少ないとみられる。門司駅正面口(南口)には昭和43年に自動券売機が導入されているので、この券は「低額券の"窓口売り"も並行して行われていた」証になると思われる。


左: 門司駅の30円券(昭和49年発行)。「鉄道入場券図鑑」による分類では"30円門司3期"。30円の料金改定は昭和44年5月10日からで、半年後の44年11月には小児料金(半額)が設定されたため"小児断線"も設けられるようになった。しかし、門司駅クラスでは切断不要の"小児専用券"が置かれていた可能性が高い。また、時期的に窓口番号の[2]が後の正面南口の[2]出札窓口を指すものかどうかは微妙。「O」も"ひらがな"に代わる循環符号と考えられないこともないが、筆者にはよくわからない。

※ "匿名様"によると、門司駅の30円券は[1][2][3][4][5][6]すべての窓口のものが現存しているので、門司駅の場合、当時小倉駅や博多駅に設置されていたようなタイプの自動券売機は昭和50年3月まで存在せず、したがって、「低額券の"窓口売り"が並行して行われていた」という筆者の説には根拠がない、とのことでした。また、「O」も確かに循環符号の1種で、この場合は"1万6千枚台"を表すということで間違いないようです。


左: 門司駅の30円小児専用券(昭和47年発行)。"北口"では140円券に至るまで"小児専用券"が発行された形跡がないため、門司駅では最初で最後の(小児券)様式と思われる(発売期間5年強か?)。


左: 門司駅の30円券(昭和51年発行)。上記の30円券とほぼ同じ"3期券"だが、文字の間隔、乙片の文字順などに相違がある。[6]はやはり"北口"の出札窓口番号と思われる。


左: 門司駅の140円券(昭和61年発行)。晩年の窓口番号[6]は北口の簡易出札窓口であることがはっきりしている。


左: [九]門司駅の140円券(昭和62年発行)。民営化に伴い、北口の出札窓口番号が[5]に変更されている。それ以外は、[九](発区分記号)を除くと基本的に国鉄時代とあまり変わっていない。


左: 赤地紋入りの[九]門司駅140円券(昭和62年発行)。鉄道誌の情報を見て、上記の券と同じ日に筆者が門司駅旅行センター(みどりの窓口)で購入したもので、窓口番号もなく、一種の記念入場券と考えてよい。("民営化"の記念券だったと思うがよく覚えていない。) 門司・小倉・戸畑・博多の他、既に軟券化した黒崎・香椎・久留米・佐賀・長崎など一部の主要駅で発売されたが、発行数限定のうえ"地紋入りの硬入"は珍しいため、今では少しだけプレミアが付いている模様。


(4) その他


[復路専用乗車券]

 既に乗車券を所持している旅客が、切符に明記された運賃算定経路から飛び出して、ある駅まで往復乗車する「別途往復乗車」の場合に発行されるもので、門司港駅の精算所には少なくとも「門司港->門司」()及び「門司港->小倉」の2種(少なくとも昭和40年頃まではA型その後B型の硬券で地紋色は近距離片道乗車券と同じ)があったことがわかっている。例えば「下関から 門司小倉日豊本線経由 大分ゆき」の乗車券を持っているケースで門司港駅に下車する場合、必ず改札口で精算所に行くよう指示されるはずだが、窓口で「すぐに(門司方向に)引き返す」旨を申告すれば、門司―門司港間の往復運賃と引き換えにこの切符が発行される規則だった。(多分この規則自体は今も変わっていないと思われる。) 余談ながら、精算窓口でもし「帰りは西鉄北九州線で門司駅まで戻る」などと申告すれば、門司->門司港の片道運賃だけを徴収されて精算終了。また、「門司港駅の改札口を出ずに引き返せば別途運賃は必要ない」という主張は無効で、「誤って門司港行に乗ってしまった」ことを係員が認定する場合に限り"無賃送還"の扱いとなる(「旅客営業規則」第291条)。しかし、実際には"車掌の証明"等がなければ「誤乗認定」は厳しかったため、軽い気持ちで「ついでにちょっとだけ門司港駅舎を見たかった」とか「門司・小倉からでは座れないので始発の門司港から乗ろうと考えた」ほとんどの人が、駅員に呼び止められてこの切符を買わされたものと思われる。


※ その後の調査で、"復路専用乗車券"はかつて門司駅にもあったことがわかりました。「門司->小倉」()及び「門司->下関」の2種(硬券)で様式は門司港駅のものと同じ(昭和52年頃?以降は赤地紋)、昭和59年2月頃までは間違いなくあったようですが、昭和60年頃には既に廃止されていました。


[門司駅の鋏痕]

 国鉄の改札鋏痕は全部で60種程あったことが知られているが、九州4局(門鉄局・熊鉄局・分鉄局・鹿鉄局)管内ではその中のわずか5種類しか使われておらず、しかも(旧国名を除く)"駅名の最初の母音"に依って単純に振り分けられたことが判明している。実際、近年のものは概ね、あ段="正方形"・い段="五角形"・う段="M字形"・え段="逆U字形"・お段="凸字形"となっていたようだが、当然のことながら?時代により特定の駅により例外があり、門司駅の場合も"お段"なのに昔から"逆U字形"の鋏痕が多く使われていた(左: 左側の券)。但し、昭和30〜40年代初期は隣の門司港駅や小倉駅、日南線子供の国駅などでも"逆U字形"のものが使われた形跡があるので、当時は お段="逆U字形"だった可能性もある。いずれにしても、門司・門司港・小倉などでは、その後も晩年に至るまでこの鋏痕が継続して併用されていることから、なんらかの理由(主要駅だから?)で"特別扱い"になっているのではないかと想像される。また、よく調べてみると、右側の券のように同時期に別の鋏痕("M字型")も確認できるので、故障等による"予備鋏痕"でなければ、"不正監視"のため改札口や時間帯によって鋏を変えていた可能性も考えられる。
 残念なことに、JR各社は平成に入って間もなく、明治以来の伝統がある改札鋏を廃止してしまい、門司駅でも一時"円形の改札スタンプ"(直径約15mmの赤インク式)が導入されたようだが、現在ではほぼ完全に"自動改札"化されている。

※ その後、改札鋏や券売機などにお詳しい谷島様よりメールを頂戴し、上記の鋏痕に関する疑問は解決致しました。本当にありがとうございました。
 谷島様によりますと、九州総局管内の主要駅(特急停車駅)では、近隣駅と同じ形にならないように上記の"ルール"とは別に鋏痕が定められていたそうで、例えば"長崎"駅(長崎本線)の場合は、すぐ近くに同じ「あ」段の"長与"駅がある一方で「え」段の駅は存在しないため、識別を容易にする便宜から1号(あ段="正方形")ではなく4号(え段="逆U字形")鋏痕が採用されていたとのことでした。また、鹿児島本線の主要駅(門司・小倉・博多・久留米・大牟田・熊本)では、さらに午前と午後とで鋏痕を変えること(やはりキセル乗車を防止するための「特別改札」)も行われており、ご教示頂いたHPの資料によりますと、門司駅の場合は上図右の"M字形"が「午前」(初電〜正午までの間)、左の"逆U字形"が「午後」(正午〜終電までの間)と定められていた模様です。大変参考になりました。この場をお借りして、再度御礼申し上げます。


6.その他



[門司駅の駅名標]

 昭和20年代後半の古写真を見ると、いわゆる"鳥居型"の駅名標も残っていたようだが、その後はすべてホームの屋根梁から吊り下げる"行灯型"が主体となり、左のタイプが最も古く長い間使用された模様。(先日偶然オークションに出ているのを見つけたが、4万円という最低値と130X71.5cmという大きさに断念。) 左下は昭和50年代に出現したもので、バランスがよく、洗練されており筆者が最も好きなタイプ。現在はすべて右下のJR様式となっている。(この間、昭和63年3月 門司―門司港間に"小森江駅"が開業。) また、[九]は「乗車券類の"特定都区市内制"の対象となる北九州地区の駅」であることを示す符号で、昭和47年8月以前にはなかった。(概ね北九州市内の駅に付けられているが、駅の所在地とは必ずしも関係ないことに注意。)

[映画の舞台になった門司駅]

 昭和53年に制作・上映された「皇帝のいない八月」という映画に門司駅が登場する。クーデターに合流する自衛隊の一部が寝台特急「さくら」を占拠するというストーリーで、機関車交換のため門司・下関に各5分間停車するタイミングを狙って列車に爆弾が仕掛けられるというもの。ストーリーもなかなか面白いが、鉄道ファンにとっては、今はなきブルートレインの運転風景・車内風景(寝台設備・車内食堂・車内アナウンスなど)が懐かしく味わえて秀逸。「さくら」が博多駅4番線ホームを発車する際「次はもじ〜 次は門司に停まります」という構内アナウンスが流れるが、当時はまだ"小倉通過"の扱いだったことがわかる。(この1年後位には小倉駅にも停車するようになる。) また、自衛隊員に殺害されてしまう"乗客専務"氏は(もちろん俳優さんだが)、たぶん"門司車掌区"の所属と思われる。



左: 寝台特急「はやぶさ」の列車食堂領収書(昭和59年)。"日本食堂"は列車食堂を担っていた数社が昭和13年に共同設立した会社で、食堂車営業の他、特急列車の車内販売なども行っていた。昔は車掌による列車案内の後、若い女性職員の声で「日本食堂より食堂車と車内販売のご案内を申し上げます...」というアナウンスが"付き物"だったので、筆者より上の年齢の方には結構"お馴染み"と思う。九州方面を結ぶ寝台特急は長らく"日本食堂門司営業所"などが担当してきたが、その後国鉄の分割民営化と同時に分社化され、九州内は"にっしょく九州"を経て"ジェイアール九州トラベルフーズ"に代わっている。しかし、近年は食堂車廃止と車内販売縮小の流れを受けて売り上げが低迷し、残念ながら平成17年頃に解散したという。



★ 門司駅構内(ホーム・駅舎等)を写した古い写真や門司駅関係の珍しい切符を探しております。画像をお譲り頂ける方は、何卒宜しくお願い申し上げます。


◆ 参考文献:「国鉄全線各駅停車I 九州720駅」(小学館・1983)/「九州の鉄道100年記念誌 鉄輪の轟き」(九州旅客鉄道株式会社・1989)/「鉄道入場券図鑑」(金井泰夫/長沢博之/高橋雅之・日本交通趣味協会・1980)/「地図式乗車券のすべて」(徳江茂/久田進一/小田規夫・日本交通趣味協会・1984)/「国鉄乗車券類大事典」(近藤喜代太郎/池田和政・JTB・2003)/「[図説]国鉄全史」(学習研究社・2004) など