21.  石北本線常紋信号場

〈位置〉 生田原―金華 間

〈開業〉 大正3年10月5日(信号所)
    →大正11年4月1日(信号場)
    →平成13年7月1日(列車交換停止)

〈乗車客数〉 0

〈概要〉

 紋別郡と常呂郡の山境にある大変歴史の古い信号場で、留辺蘂―社名淵(後・開盛)間が軌間762mmの"湧別軽便線"として計画され、留辺蘂->下生田原(後・安国)間が部分開通した大正3年10月に「信号所」として開設、遠軽―留辺蘂間が大正5年11月に改軌(1067mm)されて"本線並"に昇格した後、大正11年4月から正式な信号場となって現在に至っている。この付近は沿線の上越信号場(634m)ほどの標高はない(約300m)が、現在でも人家がほとんどない深い山間で、建設当時、生田原側の「常紋トンネル」(全長507m)の難工事は苛烈を極め、凄惨な"タコ部屋労働"により数百名もの人命を失ったばかりか、トンネル入口付近からは大量の人骨が見つかり、「トンネル壁に"人柱"を立てた」ことまで明らかになった。そのため、トンネル内に幽霊が現れるとか、信号場や保線区の職員に病人が絶えないと噂されるようになり、昭和34年になって慰霊のために地蔵像が建てられたものの、本信号場への異動を嫌がる国鉄職員は多かったという。
 生田原―金華間は約15kmも離れた(非電化)単線区間で、付近の線路勾配も厳しい(25/1000)ため、当時、中間停車場を造るにあたり全国的にも珍しい"スイッチバック式"が採用された。上りの生田原駅から10.3km、下りの金華駅から4.7km離れた本信号場(キロ程:新旭川起点148.0km)は2本の列車が同時に退避できる複雑な設計となっており(下図)、昭和30〜40年代には"SLの列車交換風景"を撮影するために多くの鉄道ファンが訪れ、"仮乗降場"として旅客扱いも行うようになった。但し、最寄の国道242号線からはかなり離れており、周辺には集落はおろか人家すらほとんどなかったため、「鉄道ファン以外の定期旅客」はまずいなかったと考えられる。


左: 筆者が再現した常紋信号場の駅名標

 昭和40年代に上図[1]の駅舎外壁(上図[2])に掲げられていたもので、他の駅とは様式も書体もかなり違っていた。この手の駅名標の最上段に「信号場」の大文字が入っているのは珍しいが、同時期、根室本線"狩勝信号場"(昭和41年10月廃止)の鳥居型駅名標もこのタイプ(「かりかち信号場」)だったことがわかっている。「S.S]は恐らく"Signal Station"(信号場)の略号。ちなみに、隣駅は両方とも戦後に改称したため、終戦頃の駅名標では(あったとすれば)「ぽんむか<-|->かみいくたはら」だったはずだ。


〈訪問記〉

 筆者が本信号場の存在を知ったのは、遅まきながら小学館の「北海道690駅」(昭和58年7月刊)巻末の「北海道仮乗降場一覧」(P.226)が最初で、昭和58〜60年当時、2つの道内版時刻表にも記載されていなかったが、上越信号場や神路信号場などと同様に「今も旅客扱いをしている」という噂を聞き、ずっと乗降・撮影の機会をうかがっていたものの、ついに果たせなかった。当時でも生田原―金華間に停まる普通列車はわずかに6往復(12本)しかなく、しかも前後の列車連絡を考えるとスケジュール的に"道東のローカル線巡り"と同時に消化することが困難だったため、ついつい後回しになってしまったのが原因である。しかし、急行・特急列車ではしばしば同区間を通っていたので、せめて車窓からでも信号場の姿をカメラに収められないかと思い、なんとかスナップしたのが冒頭の写真(60.-7.11.上り特急「オホーツク4号」車窓)。この2棟は信号場の(旧)関連施設と思われるが、現存している古写真から判断すると信号場の本屋でないのは明らかで、撮影角度から推測すると上図[A]付近の建物と考えられる。しかし、その後も本信号場を通過する度に目を凝らして観察したものの、期待していたホームや駅名標はついに発見できず、そのうち「常紋信号場の交換設備はあまり使われておらず、旅客取扱いも中止されたらしい」という話を耳にするようになった。これもずっと後になって知ったが、昭和50年代後半には既に信号場のポイント(線路)付近はすっぽりスノーシェルターに覆われてしまったため、図の本屋や駅名標が車窓から見えないのは当然であった。

 その後、最近になって再び本信号場に興味が湧くようになり、色々と文献やネット情報を調べてみた。現存する写真や映像などから判断すると、信号場の全景は概ね上図のような感じで、特徴としては @1・2番線と折返線からなるスイッチバック式、A本線上下側にタブレット交換用(?渦巻き状の"通票受柱"設置)の非常に短い(長さ7〜8m位の)土盛りホーム、B1・2番線にも木組みの旅客用(?)ホーム があったらしく、全体的に大変複雑な配線・構造であったことがわかる。実際には1・2番線、折返線共に300m近い長大な構内であったが、深い山間で建設用地が狭かったため、全体にやや湾曲しているうえに1・2番線がかなり本線に接近しているのも特徴といえる(スイッチバック式なので高低差はある)。古い写真を見ると1番線側にはかなりたくさんの建物(施設)があり、また昭和7年頃に作成された構内配線図を見ると、なんと"職員官舎"まであったことがわかる他、図の[A]付近に「A」記号(駅長事務室)が記入された建物が書き込まれており、昔はこの辺りが信号場本屋だった可能性もある。しかし、少なくとも昭和40年代には本線とのクロスポイント付近に"通票閉塞機"が設置された駅舎(管理棟)があったのは間違いなく、灰色の外壁の上り側半分は2階建ての構造となっており、恐らく宿直施設も併設されていたと思われる。駅名標はこの本屋の線路側外壁に1枚だけ掲げられていた(上)ようで、(少なくとも昭和40年代には)ホーム(4ヶ所)のほうには"鳥居型"などの駅名標はなかった模様。また、旅客用の待合室や出札口などもなかったと考えられる。
 なお、一部では本信号場の旅客扱い開始を昭和26年4月、旅客扱い廃止を昭和50年7月とする情報もあるが、上記「北海道690駅」にも記載があることから、なお暫くの間は上越・神路のように「車掌に申し出れば一応乗降できた」可能性も否定できない。石北本線は恐らく昭和58年頃前に一斉に"自動閉塞式(ATS)"が導入されたため、列車の減少も相まって、その後本信号場の重要性は急速に低下し、いつしか職員の駐在も廃止されて、平成に入ってからは1日にわずか1〜数本程度の列車交換は行われていた模様だが、平成11年頃にはそれもなくなって、平成13年7月にはついに交換設備の使用が停止されたという。しかし、平成22年現在でも一応"信号場"(閉塞区間の境界)としては現役で、本線の場内信号機(引上線側)及び引上線の出発信号機は使用停止(規定により白い「X]片が装着されている)、建物の大半も撤去されてしまったようだが、スイッチバック式の配線(線路)はそのまま残っている由である。



左: 常紋信号場における列車交換模式図 (アニメーション)

 昭和46年頃の列車交換の1例を再現してみた。信号機に関しては各種資料から上記の4ヶ所は確実だが、この他古い構内配線図には上図[B]の場所にも信号機が描かれており、昭和46年撮影の8mm映像で確認してみると、確かに背の低い色灯式信号機(上下2灯)らしきものが写っている。信号場は常紋トンネルの出口近くにあり、本線下りの場内信号機は当時もトンネルの生田原側入口に設置されていたようなので、この信号機の素性は不明。(筆者は運転/信号は専門ではないため、ご存知の方がおられましたら是非ご教示下さい。) ちなみに、1番線の出発信号機は本線上り列車からの視認性をよくするため、昭和48年前に"高架式"に改修された模様。また、その後、これらの"腕木式"信号機はすべて"色灯式"に変更されている。



〈時刻表〉

 (青函局管内)函館本線などの信号場と同様、"旅客扱い"を行う信号場(兼仮乗降場)ということで、かなり昔から全国版の時刻表にも掲載されており、交通公社版では昭和43年頃までは「常紋(仮)」、以後は「常紋(臨)」と表記されて発車時刻もちゃんと記載されていた(昭和39年以前のB6サイズ版では省略されている場合もある)。これを見ると、普通列車の場合、当信号場の旅客停車本数(昭和40年代)は5往復(9〜10本)程度、生田原―常紋間(10.3km)は勾配の関係で(最速)下りが20分に対して上りが10分前後、常紋―金華間(4.7km)は(最速)下りが8分、上りが12分程度掛かっていたことがわかる。全国版時刻表に載らなくなったのは恐らく昭和50年頃と推測されるが、道内版時刻表(「北海道時刻表」及び「道内時刻表」)については手元に資料がないのでよくわからない。何か情報があれば、是非ご一報下さい。


左: 常紋信号場で交換する普通列車 (昭和40年代の時刻表より抜粋)

@ BとDは昭和42年頃の普通列車で、列車D(上り)は旅客扱いしているのに列車B(下り)は"通過"扱いになっている。列車Bの生田原―金華間の所要時間は非常に短く(23分)、列車Dが待機している横(本線)を列車Bがわずかな停車(減速)で通り抜けていった様子がうかがわれる。

A AとCは昭和47年頃の普通列車で、列車C(上り)が先に信号場に到着して20分以上も待機しているようだが、その後列車A(下り)も到着して数分間停車し、しかも両方共に旅客扱いを行っている。貨物列車の通過待ち等で2本とも引上線(1・2番線)に退避していたのだろうか? 時刻表の上で信号場の列車交換をあれこれ想像するのは結構楽しい。


〈常紋信号場のきっぷ〉

 もともと信号場として開設されたこともあり、「常紋(信)発行」ないし「(信)常紋駅発行」などと印刷された乗車券類は今まで一度も目にしたことはない。運転関係の職員は常駐していたが、恐らく当初から出札設備は一切なく、鉄道ファンから発券の希望があっても「きっぷは車内で購入するよう」指示されていたものと思われる。同様に、他駅発行の「OOから常紋ゆき」などの切符も筆者は見たことがない。