(特別企画)【"仮乗降場"こぼれ話】


1.名寄本線厚生病院前仮乗降場について

 名寄本線の中湧別―上湧別間には昔、"北湧"と"厚生病院前"という2つの仮乗降場があったが、決して同時期に並存していたわけではなく、昭和41年10月を境に"入れ替わる"ように設定されており、場所自体も微妙に移動している。この背景には、深名線の"下政和->政和温泉"(雨煙別―政和間)や士幌線の"糠平ダム->電力所前"(黒石平―糠平間)等と同様に、何か特殊な事情があったはずで、以前よりずっと気になっていたこともあり、今回特に"厚生病院前"仮乗降場について少し詳しく調べてみた。

仮乗降場 位置 開設 廃止 備 考
厚生病院前 名寄起点 ? km 30.12.25. 41.10.-1.  
北湧 名寄起点125.0km 41.10.-1. 1.-5.-1. 62.-4.-1.正式な"駅"に昇格

(1) 厚生病院前仮乗降場の所在地について
 「厚生病院」とは当時上湧別町に存在した農協(現JA)系の「北厚生連上湧別厚生病院」(頻繁に名称変更しており、平成21年 3月からは「ゆうゆう厚生クリニック」)を指していると考えてまず間違いない。「北湧駅」の"Wikipedia"には「同(厚生病院前)仮乗降場は中湧別駅と当(北湧)駅の間に位置した。」と記載されているが、 「医師転職支援センター」HPの「JA北海道厚生連 上湧別厚生医院」のページに「当院の開設は古く、昭和14年9月上湧別町 屯田市街地に北紋医療利用組合聯合会久美愛病院として開設されました。」とあり、上湧別駅の所在地も同じ「上湧別町屯田市街」 (旧・上湧別町役場/現・湧別町役場付近)であることから、厚生病院前仮乗降場は「中湧別―上湧別間のかなり上湧別駅側に あった」のではないかという疑問が湧く。しかし、「屯田市街」の区域はかなり広大で、昭和41年10月1日に厚生病院前仮乗降場 廃止の代替に設置されたという北湧仮乗降場の所在地もまた同じ「上湧別町屯田市街」であるため、両者が相当接近した場所に あったのは確実ながら、直ちに微妙な位置関係を判定することは難しい。
 そこで、「病院前」というくらいなので、国土交通省の「国土変遷アーカイブ空中写真」を閲覧して、昭和52年4月に中湧別へ 移転する前の旧・北厚生連上湧別厚生病院を探索してみたところ、北湧仮乗降場の約1km遠軽(上湧別)寄りの遠軽方に向かって 車窓右手にそれらしき建築物を確認できた。(筆者の見る限り、北湧より中湧別側には沿線に病院クラスの大きな建築物はないように 思える。また、そのさらに数百m遠軽寄りの車窓左手にも大きな建物群があるが、昭和52年10月撮影の拡大カラー写真を見ても、 病院特有の「渡り廊下」等が確認できず、筆者としてはやはり前者の方を推したい。) この建物は、厚生病院前仮乗降場が写って いるはずの昭和39年9月のモノクロ航空写真でもはっきりと確認できる一方、昭和59年5月の写真では取り壊されてなくなっている のがわかるため、十分可能性はあると思われる。また、昭和39年撮影の画像を具に観察すると、筆者には病院と思しき建物から線路 へ続く小道の交点に小さなホームの影を見てとれたのだが、皆さんはいかが思われるであろうか。


左: "仮乗降場"時代の「北湧(ほくゆう)」(昭和59年2月)。ずっと、単に「北湧別」の意味だと思っていたが、"Wikipedia"によると「かつて当駅付近に6年制の"北湧校"という学校が存在した」ことが駅名の由来という。すぐ近くに"上湧別町立上湧別中学校"(当時)があるためか、ホームの有効長は仮乗降場としては破格の長さ。


左: 北湧仮乗降場のホームから上湧別駅方面を望む。ここから1km位の目視できる範囲(矢印)に"厚生病院前"仮乗降場があったと考えられる。


(2) 厚生病院前仮乗降場が廃止された経緯


 昭和41年9月に上湧別町の5校が統合されて現在地に新・上湧別中学校が設立されたことに伴い、通学生の便宜を図るため、 新築校舎に近い1km中湧別寄りに新しく北湧仮乗降場が設置されることになり、「駅(乗降場)間距離が短過ぎる」ことが原因で 当乗降場が廃止されることになったのではなかろうか。「利用者が少なかった」ということも考えられるが、そちらはあくまで付加的な 理由と思われる。


下: 完全に筆者の空想と願望により作製した厚生病院前仮乗降場の模型(1/150スケール)。ホーム長(スロープ部分を含む)は約19mと推理し、"一本松・富岡・四号線"など名寄本線でよく見掛ける"旭鉄局"仕様の仮乗降場の写真を参考に、Nゲージのレールを屈曲して作った基礎フレーム(支柱)とSTウッド製の"羽目板"等を使ってフルスクラッチした。"出札口"のある駅舎(待合所)は"ご愛嬌"。「北厚生連上湧別厚生病院」はこの小道の手前百m位の場所にあったと思われる。



2.根北線の仮乗降場について

 昭和45年12月に廃止された根北線(斜里―越川間)には、釧鉄局管内では珍しく3つの仮乗降場があったことがわかっている。周知の通り、同線は期待していた貨物輸送が全く振るわず、開業(昭和32年11月)当初から深刻な営業赤字が続いたため、少しでも利用客を増やすためにこれらの乗降場を造ったのだという。3つとも月日のデータは不明だが、いずれも昭和33年頃の開設とされており、実態についても一部写真付きで当時及び最近の鉄道専門誌等に紹介されている。「極めて簡素な短い木造の踏み台?があるだけで駅名標すらなかった」とのことで、"仮乗降場ランキング"を作れば"貧相"部門のNo.1〜3ランクを占めるのは間違いない。筆者が所有している資料中では「鉄道ピクトリアル」2011年10月号に片岡昭夫氏が昭和45年11月に撮影した"14号"仮乗降場(下越川―越川間)の写真が掲載されており、まさに「傾いた木製の台?と踏み段が置いてあるだけの代物だった」ことがよくわかる。また、この他に根北線の沿線・運転風景を記録した2分ほどの"ニュース映画"(昭和38年8月頃放映)やNHK「新日本紀行」(昭和45年12月放送)などのテレビ番組も残っており、それらの実写映像から筆者なりに3乗降場をもう少し詳しく分析してみたいと思う。

(1) 西二線仮乗降場(以久科―下越川間) :斜里起点5.8km
 ネット検索で調べてみたところ、某HPに当乗降場の画像が公開されていたが、少し疑わしい。(これは"14号"ではなかろうか。) 昭和38年8月頃放映のニュース映画を見ると、冒頭から45秒目くらいに比較的大きな農家の真前に設置された乗降場の停発車風景が挿入されており、筆者はこれが"西二線"ではないかと推定する。(左下:"14号"のホームと比較して支柱の数が多く、スロープ幅も広いように見える。) 確かに極めて小さなホームだが、以下の分析から実際の大きさは幅90cm程度("半間"か)、長さは3mから4mの間("2間"か。スロープ部分を除く)ではないかと思われる。("14号・16号"もほぼ同じ。) また、ホーム面の高さは気動車の乗降口よりわずかに低い程度で、これは他の仮乗降場とほぼ同じに違いない。


@ 映像状態が悪くてわかりにくいが、大人4〜5人と子供2人くらいが同時に立てる大きさ。(2m以下では無理。)
A 恐らく短辺の幅が15cm位の羽目板20枚以上で構成されている。(15 X 20 = 300cm以上)
B ホームの幅がレールの軌間(1067m)より少しだけ短い。
C ホーム幅が女性の肩幅の2倍程度。(45 X 2 = 90cm)
D ホーム幅が男性の足のサイズの3.5倍程度。(25 X 3.5 = 87.5cm)
E ホーム幅が"キハ03"の車両幅(2602mm)の1/3程度。(260 X 1/3 = 87cm)


 ホームの設置方向については、ネット検索を掛けてみたもののはっきりと断定しているページはなく、当乗降場についてはニュース映画上で7〜8人の利用客が乗り込む気動車の進行方向から「越川方面に向かって左側」ではないかと推定できる。沿線は当時から極めて人口が希薄で、"大勢が仮乗降場から越川方面に移動する"ことは考えにくいからである。ちなみに、昭和45年頃の越川駅周辺の開拓農家はわずか2戸だけだったという。


(2) 14号仮乗降場(下越川―越川間) :斜里起点9.5km
 辺鄙な乗降場らしい閑散とした雰囲気やあるいは交通的な"寄り付き"の関係からか、3つの乗降場の中では比較的画像や映像を目にする機会が多い。昭和45年12月にNHKで放送された新日本紀行「ある廃線 〜北海道・国鉄根北線〜」の冒頭で紹介されている「名前もない小さな駅」は恐らく当乗降場であると考えられる。これは小学生?の乗車シーンを撮ったものだったが、やはり越川方面に通学する可能性は低いように思われるので、ホーム位置は「越川方面に向かって左側」ではないかと推定できる。ホームが極めて短いため、旅客の乗降には前方扉しか使用できないうえ、「ホームに人がいなければ通り過ぎてしまう」とのことであった。ちなみに、根北線の利用客は昭和45年の廃線頃で、全区間でも1日100人程度(全国第2位の赤字路線)だったという。



左: 今回、各種資料を基に筆者が製作した"14号"仮乗降場の模型。原寸自体が小さいためNゲージサイズに縮小(1/150)すると、ホーム面がわずか幅6mm・長さ25mm程度になってしまうので、やむを得ず実尺より1.5倍以上拡大(1/90スケール)して作製した。実物も骨格はすべて木製で、支柱や筋交いの本数も少なくていかにも頼りない。(写真資料を見ると、実際「積雪等により傾きそうになったのを左右2本の支柱で強化した」痕跡が認められるが、模型上では省略した。) "16号"もこれと同タイプと思われ、駅名標等が一切なく、スロープ幅がかなり狭いのも特徴的。



左: 旭鉄局管内に多い"簡易タイプ"(10本支柱)の仮乗降場と比べても、このように大きさの差は歴然。


(3) 16号仮乗降場(下越川―越川間) :斜里起点11.0km
 下越川―越川間はもともと4.6kmしか離れていないのに、この区間には2つの仮乗降場が併設されていた。昭和38年8月頃放映のニュース映画を見ると、冒頭から1分45秒目くらいに「競合するバスが踏切を渡り切るまで乗降場に停車したまま待機する気動車(レールバス)」のシーンがあり、周囲の景色が明らかに"14号"と違っていることから、これが"16号"であろうと判断した。


 鉄道とバスの当時の"力関係"がわかる。ちなみに、根北線は「少しぐらいの時間なら待ってくれる"親切列車"」と地元民に親しまれていたという。当乗降場の位置は"16号踏切"からわずかに越川寄りとみられ、バスの進行方向から推してやはり「越川方面に向かって左側」ではないかと思われる。映像が小さくて少しわかりにくいが、幅の狭いスロープ形状などを見ると、構造は"14号"と全く同タイプではなかろうか。



3.函館本線嵐山仮乗降場について

 先日、旭川在住の"モリゴロウ"様より「昔、函館本線の近文―伊納間に『嵐山』という仮乗降場があった」という耳寄りなメールを頂戴した。いつも情報源としている「北海道690駅」(昭和58年・小学館)巻末の"廃止停車場変遷一覧"等には記載がなく、筆者にとっては全くの初耳だったため、現地にお住まいの"モリゴロウ"様ならば最も正確で詳しい情報を入手できるに違いないと思い、早速お話を伺ったところ、なんと「昭和33年頃に設置されて"わずか数ヶ月"(最大1年ほど)の短命で終わった幻の仮乗降場」とのことであった。廃止年代が極めて古いため、自力でネット検索などを行っても案の定ほとんど情報は得られなかったが、わずかながら某HPの情報により、函館からの正確なキロ程と「"日本交通公社の時刻表・昭和33年6〜8月号"にのみ『嵐山(仮駅)』の記載があることから、昭和33年8月以降間もなく廃止された可能性が高い」ことはわかった。一体どういう背景で設置され、なぜこんなにも早く廃止されてしまったのか、非常に興味深い。

(1) 嵐山仮乗降場設置の背景
 嵐山仮乗降場の推定位置から旭川寄りは現在かなり市街化が進んでいるが、石狩川の支流(オサラッペ川?)を渡るとほとんど民家はなくなってしまい、"モリゴロウ"様が当乗降場に興味を持たれたのも「(地元の者ならよく知っている)こんな辺鄙な場所になぜ乗降場があったのか不思議に思ったため」という。試しに「(嵐山 旭川)」などでネット検索してみると、乗降場のすぐ近くに"嵐山自然公園"があることが判明。さらに同公園の開設が昭和32年とわかったため、「ひょっとしたら開園に伴う何らかのイベント(行事)用に短期間、臨時に設置されたものではなかったか」と思い、"モリゴロウ"様にその旨尋ねてみたところ、案の定次のような回答を頂いた。


 「嵐山公園は昭和32年10月に"旭川都市公園条例 第22号"に基づき、旭川営林局所管の国有林地区を無償貸与されたのが始まりです。"嵐山"の名前もその時付けられたものらしく、単に京都の嵐山に似ているからという安易な話のようでした。開園に際して、公園内に『酒井 広治』という人物(旭川ゆかりの短歌人)の歌碑を建てることになり、その建立工事と記念行事(お披露目)のために当乗降場が造られたのではないかと私は考えております。その理由は、

・歌碑(嵐山公園展望台)の位置が公園内でも"アイヌ文化の森・伝承のコタン"(昭和47年開館)側の斜面にあり、『近くに急で朽ち果てた木の階段と石碑から下に向かって今では熊笹が生い茂った小道があり、昔は線路の方に続いていたらしい』という知り合いの証言がある。(以前はこちらが函館本線への最短経路で、その交点辺りが嵐山乗降場の推定位置。)
・ネットを検索したところ、某HPに歌碑の建立記念写真が掲載されており、その日付が昭和33年6月15日となっている。」


(2) 嵐山仮乗降場の所在地について
 某HPによると嵐山仮乗降場の位置は「函館起点419.500km」とされており、現在の近文駅が「函館起点419.1km」なので一瞬"アレッ"と思ってしまう(これでは嵐山の位置が"近文―旭川間"になってしまう)が、昭和44年9月の函館本線複線化工事に伴う線路の付け替え("神居古潭"駅廃止)で函館からのキロ程がわずかに延長したことがわかり、一応事なきを得た。当時の時刻表によると、上手の伊納駅が「函館起点415.0km」、下手の近文駅が「函館起点421.1km」となっていることから、このデータが正確ならば、当乗降場は伊納―近文間でもかなり旭川寄りにあったことは間違いない。


 "モリゴロウ"様によると、仕事の取引先のお父様が昔国鉄の保線区で働いていたらしく、以前は近文に変電所と国鉄官舎があって嵐山仮乗降場にも割合近いことから、正確な位置は不明瞭になったものの「乗降場があったこと自体は間違いない」と話してくれたそうです。結論として、「嵐山仮乗降場の推定位置は現在の"アイヌ文化の森・伝承のコタン"(北邦野草園)の南方、函館本線の下側に並行して見えるアスファルト道(今はサイクリングロードになっている「旧函館本線」)が旭川〜神居古潭間で唯一枝分かれしている場所、北邦野草園方へ向かう分岐点(左図の赤い矢印地点)ではないかと考えております。」とのことでした。
 "Googleマップ"などの航空写真を見ると、この辺りは石狩川とその支流及び嵐山の深い森林に囲まれた全くひと気のない場所で、"モリゴロウ"様ご指摘の通り、駅(乗降場)があったとは到底思えない"秘境感"が漂っています。



左: 嵐山仮乗降場があったと考えられるサイクリングロードの分岐点。上を走るのが現在の函館本線(左手が「近文」側、右手が「伊納」側)で、北邦野草園へ向かう枝道側から旧函館本線方を撮ったものと思われる。
 資料によると昭和33年6〜8月頃には"旭川〜嵐山(仮)"間で土曜2往復・休日4往復の臨時列車?まで運行されたらしいが、なぜ昭和33年8月以降急に運行が休止されたのかはやはり謎。(予想より乗降客が伸びなかった?) また、乗降場の正確な開設年月日(上限は昭和32年10月)や廃止年月日(昭和33年9月?)もわかっていないが、引き続き調査を続けてゆく予定。

◆ "モリゴロウ"様、この度は本当にありがとうございました。


 その後、再度"モリゴロウ"様より丁重なお手紙を頂戴し、上記推定位置はどうやら誤りで、"モリゴロウ"様が新たに発見された資料により嵐山仮乗降場の場所や開設期間などがほぼ確定したとのご連絡を頂きました。


 "モリゴロウ"様が今回入手された資料(「旭川市民こうほう」1958年8月号)には嵐山仮乗降場が「チャシコツ臨停」という名前で記入されており(左図)、さらに旭川市教育委員会のHPに掲載されている嵐山公園の「チャシコッ」の記事から、Googleマップを使って位置を特定することができたとのことでした。
 「チャシコッ」とはアイヌ語の"砦跡"という意味で、嵐山一帯には2ヶ所あるようですが、そのうちの一方"チノミシリチャシコッ"がこれに該当する模様で、旭川市教育委のHP(「あさひかわの文化」)に「嵐山展望台から近文山国見の碑に通じる道の中間にあり、渇水期には枯れてしまう程の二本の小沢に挟まれた狭い突兀(とっこつ)部」とあることから、"モリゴロウ"様ご指摘の通り、同部付近をGoogleマップ「地図」で探ったところ、うっすらと水色で着色された短い2本の沢(跡?)が確認できました。したがって、嵐山仮乗降場("チャシコツ臨停")は、この2本の沢と旧函館本線(現・サイクリングロード)の交差点付近(前回"モリゴロウ"様ご指摘の場所より500mほど伊納寄り)にあったと考えて間違いないと思われます。なお、「旭川市民こうほう」の地図には、乗降場から上記"酒井広治の歌碑"がある"弓成山展望台"へ通じる1.5kmほどの遊歩道?も確かに記載されていますが、これは現在も通行可能かどうか定かではありません。



左: 嵐山仮乗降場の開設を伝える当時の記事(右上/「旭川市民こうほう」1958年6月号・左下/「北海道新聞」昭和32年6月12日号)。これらの資料から判断すると、乗降場の実質営業期間は「昭和32年6月15日〜9月15日と昭和33年5月24日から当分の間(いずれも土日祝祭日のみ)」の2年に跨っていた模様で、昭和33年は利用客の不振が原因で?早くも7月には営業中止(乗降場廃止)になったことが別の資料から判明しています。"モリゴロウ"様によると、運行に使われたのは46人乗りの小型"レールバス(キハ03)"だったようですが、「この時期はちょうど不景気の真只中で、家族サービスや観光の余裕はなかったのでしょう」とのことでした。


◆ "モリゴロウ"様、今回も本当にお世話になりました。この場を借りまして、篤く御礼申し上げます。


 さらにその後、再び"モリゴロウ"様よりメールを頂戴し、上記の嵐山仮乗降場の推定位置に関して、再調査のため実際に現地を訪問した結果、確信が持てる発見をしたとのご報告を頂きました。以下、"モリゴロウ"様のご好意により訪問記事及び画像掲載の許可を頂きましたので、併せてご紹介致します。


 ★ 「嵐山仮乗降場の場所を確認すべく北邦野草園より旧函館本線(サイクリングロード)に向かって歩き始めた。散策路から本線に入る。仮乗降場に向かう道は落石のため何年も通行止のままだ。500m先の目的地まで虫や鳥のさえずりしか聞こえない。まわりは緑の木々がトンネルのように出迎えている。しかし、"もしかしてだけど〜♪"(笑)クマが出るんじゃない?という恐怖心が襲ってくる。ビクビクしながら進んでいくとブルーシートに覆われた落石の痕。ここで下敷きになったら誰も助けてくれね〜よなぁ〜と考えながら今来た道を振り返ると、道が緩やかなカーブを描いているせいで出発点が見えない。。恐怖と孤独っ!(汗) 気を取り直して"iPad"で位置を確認しつつ前進すると、小さな"カルバート"*)が見えてきた。しかし、地図上ではまだ少し先のようだ。そのまま進んでいくと白い柵のカルバートを発見! その先、左にカーブしている所にも白い柵が見えた。右手を見ると大きな木が2〜3本あり、とてもこの辺りに『乗降場』があったとは思えない。しかし.....。

*)筆者注: 上部に蓋をされたり、地中に埋設された水路。暗渠(あんきょ)。ここでは小さい沢に造られた橋構造物を指す模様。


 と、左にカーブしていく途中の白い柵の右手に"案内板"が! なんと"チャシコツ"に向かう登山道の案内が書かれている。"旭川市民こうほう"に書かれていた地図から推測しても、この場所に乗降場があったことは間違いないと思い、振り返って藪のほうに目をやると『電柱』らしき木が! 他の木々と違って真っ直ぐに立った茶色の電柱だ。先の部分は垂直にカットされた明らかな人工物。半世紀以上過ぎた今でもしっかりと立っていることに感動〜っ(涙)。 近文駅側に歩いて戻ると、2〜3本の木々の向こうにもう1本『電柱』が周囲の景色と同化していた(笑)。簡素な板張りのホームだったであろう『嵐山仮乗降場』はこの『電柱』が2本立った間の場所にあったに違いない。そして、この大きな木がここまで成長する前になくなってしまったのだ、と感慨にふけながら帰路についた。



左: "モリゴロウ"様による嵐山仮乗降場の推定位置。周囲の状況からみて、ほぼ間違いないと思われます。



左・下: "モリゴロウ"様製作による嵐山仮乗降場のジオラマ。(脱帽です。) 今回当地を訪れる前に製作されたそうですが、実際、当時はこのような風景だったに違いないと筆者も思います。


◆ "モリゴロウ"様、今回もまた大変お世話になりました。これからも何卒よろしくお願い申し上げます。



◆ このページは折をみて少しずつ加筆してゆく予定です。