(特別企画)【土に還った幻の停車場 -深名線宇津内駅-】


1.土に還る廃駅跡

 廃止になった駅の遺構の保存状態は、やはりその立地条件に依るところが大きい。周辺に比較的まとまった人口があった場合は、"駅を中心として集落が形成される"パターンが多く、廃駅から何十年を経ても何となく"駅前通り"の雰囲気というのは残っているものなので、さほどの予備知識がなくても大体の位置を推測することはそんなに難しくはない。また、都市部などさらに人口の多い地域にあった駅の場合も、廃止後直ちに再開発が進んで、跡地に大きなビルが建ったり、道路が付け替えられたりして、却ってわかりにくくなったりするケースもあるかもしれないが、周辺人口が多い分「駅の記録や記憶」もたくさん残っているため、正確な位置を特定すること自体はそれほど困難ではないと思われる。
 ところが、当HPで採り上げるような「もともと周囲に住居も疎らな小駅」の場合は、廃駅と前後して目印となる民家などの人工物まで消滅してしまうパターンが多く、駅舎やホームまできれいに撤去されてしまうと、ほんの数年で草木が生い茂って場所の特定が困難になってしまうことが少なくない。甚だしい場合は、一見しただけではホームの位置を推定できないほど境界部分が周囲の景色と同化してしまい、そこに駅が存在した気配すらなくなってしまうことがある。そういう例はやはり北海道に多いようだ。
 それでも、ホームの一部や駅舎の基礎部分などは、よく調べれば完全に回収されずに残っている場合が多いため、わずかな痕跡を探り当てることができれば正確な位置を特定することは概ね可能だという。この辺りの事情やノウハウは、「鉄道廃線跡を歩く」シリーズ(宮脇俊三編著・JTB出版事業局)を始めとするたくさんの著書や多くの廃線跡探訪愛好者のHP(リンク参照)に詳しいので、敢えてここでは採り上げないが、調査に当たってかなりの鉄道知識が必要なことは間違いない。筆者もときどき"真似事"をさせてもらっているのだが、現在でもはっきりと駅舎やホームの一部が残っている幸運なケースはまだしも、ほとんど"土"に還ってしまった跡地となると実際には地図程度を持参しても全く役に立たず、また確認のために草木を掻き分ける勇気もないため、結局断念せざるを得なかったケース(湧網線北見富丘駅跡や浜床丹仮乗降場跡など)が多い。特に道内の僻地では似たような地形、似たような風景が延々と続く区間が多いため、"数メートルの精度で正確な場所を特定することは結構大変な作業"という実感だ。とりわけ仮乗降場の類や極端に廃止時期が古い駅では調査が難航することがあり、そのような"専門家"をもってしても「大体この辺りのハズだが確証はない」という場合があるという。


2.深名線宇津内駅の概要

 昭和24年に廃止となった深名線宇津内駅などはその最たるものではないだろうか。今では人が容易に寄り付くこともできない深い山間の僻地にあったうえ、廃止時期があまりに古いために、遺構はもちろん駅に関する資料がほとんど残っておらず、文字通り"幻の駅"となっているのは誰もが認めるところだ。
 朱鞠内の"三股"地区(朱鞠内駅と湖畔仮乗降場の中間辺りの旧中心街)から上流に手の指を広げた形に多くの川(雨竜川・朱鞠内川・ウツナイ川)が流れているのを見た溝口潔夫という青年技師が、(雨竜第一)ダムを作って水をせき止め、標高の低い天塩川の風連に落として発電する巧妙な計画を着想し、藤原銀次郎が中心となって実行に移して、昭和18年に完成したのが我が国最大の人造湖といわれる"朱鞠内湖"である。深名線はこれらのダム建設資材の搬入と、苫小牧の王子製紙工場への原木の搬出を目的に、ダム建設に先立って着工され、昭和7年にはまず深川から朱鞠内までが完成(幌加内線)。昭和10年頃から朱鞠内―宇津内間の延伸工事が始まって、昭和12年には名寄側からも進んでいた路線建設が初茶志内(後の天塩弥生)まで開通(名雨線)、昭和16年10月に残る朱鞠内―初茶志内間が完成して全線が深名線と改められた。全通に至るまでに多くの労働者が命を落としたといわれている。朱鞠内地区へ主に岐阜県から入植が始まったのは大正2年頃かららしいが、深名線の開通とダム建設予定地での木材の切り出しが始まると共に人口が急増し、最盛期には400戸を越えて朱鞠内の街には飲食店やカフェなどが軒をつらね、ダム工事関係者を入れると数千人の人口を抱える街になったという。
 一方、雨竜川の西寄りの支流であるウツナイ川でも下流部に(雨竜第ニ)ダムが建設された結果、朱鞠内湖の西にも小さな人造湖が出来上がり、朱鞠内湖に含めてしまうこともあるが、特に"宇津内湖"とも呼ばれている。宇津内はアイヌ語の「ウッ・ナイ(ut-nai 肋骨・川)」が語源と見られるが、具体的にどのような地形を意味するのかはよくわかっていないという。(名寄本線の宇津駅や宗谷本線歌内駅と語源的には同じらしい。)宇津内地区(大字朱鞠内字宇津内?)に人が住むようになったのもこの辺りの時期と見られるが、当時の正確な戸数や分布などははっきりしない。あるいは宇津内駅自体がダム建設を目的とした"臨時駅"のような性格で、周辺にはまともな集落は形成されなかったという可能性もあるが、全く想像の域を出ない。昭和18年に雨竜第一ダムが完成してからは既に朱鞠内地区で人口の減少が始まったとのことなので、宇津内地区の繁栄のピークもやはり終戦前後の時期と見られ、昭和20年9月頃に3往復だった宇津内駅の停車本数は昭和22年12月頃には2往復に削減されており、早くも昭和24年3月31日をもって廃止の憂き目に遭っている。但し、「停車場変遷大事典」(1998年・JTB出版事業局)によると、翌4月1日から暫くの間は"仮乗降場として存続した"ことになっており、完全な廃駅は昭和31年11月19日以降と見られている。(この"注"の書き方からみて「31.11.19.に"宇津内仮乗降場"への停車を目撃した人物がいる」ということではないかと思うのだが、真相はどうであろうか?)


 JR北海道が深名線廃止後に関係者に配布した資料に「深名線 風雪とともに」という冊子があり、その中に宇津内駅関係の記述が少し載っていることを北の旅人氏に教えて頂きました。それによると、深名線第3工区白樺・宇津内間は昭和11年5月に着工して13年4月に竣工、第4工区宇津内・朱鞠内間は昭和10年8月に起工して12年8月に竣工とあり、第3工区と第4工区は一時期同時進行で、宇津内駅が路線建設の重要ポイントにあったことがわかります。また、一般駅であった昭和16年10月10日〜24年3月31日の約8年間に4人の駅長(実名記載)が歴任したことも併せてわかりました。
 さらにその後、"北海道時刻表"昭和30年8月号に間違いなく"宇津内仮乗降場"が掲載されていること、および晩年の停車本数が1日"4往復"であったことも教えて頂きました。感激です。


◆北の旅人様、本当にありがとうございました。


 その後、北海道在住の北見大橋氏よりメールを頂戴し、@宇津内駅が廃止後も確かに"仮乗降場"として存続していたこと A昭和30年頃に"気動車"が停車していたこと を示す貴重な資料を提供して頂きました。以下、メールの内容をご紹介致します。

「(平成27年)5月30日に名寄の北国博物館で開催されている『キマロキ保存40年・深名線廃線20年記念展』 という無料の企画展を見てきたのですが、その展示品の中に"宇津内"の駅名が記載された資料がありました。モノは、ダイヤ作成の基(もと)となる"基準運転図表"というもので、表の右端には『基準運転図表(深名線) 気動車用 名寄機関区』 とあります。(中略)図を進んで見ていったところ、なんと"宇津内"駅が載っているではありませんか!
 『宇津内』 の駅名にバツが付けられています(左図赤マル)が、これは、仮乗降場としての宇津内が廃止になった後にこの図表の持ち主である運転士さんが付けたものでしょう。なんにせよ、宇津内の駅名が載っていて、運転曲線は 「通過」 ではなく、しっかり宇津内に停車している(!)"宇津内"の駅名が入った、現場の公式文書を初めて見る事が出来ました。
 また、宇津内の左の方に鉛筆で 『湖』 と書いてあるのは、のちの湖畔仮乗降場です。(筆者注:スペースの関係で図表(左)は一部分のみを表示。また、縮小のため文字は不鮮明ですが、ご了解下さい。) この図表が出来た時は まだ湖畔が無かったようで、運転図表上では当然ながら停車のない速度で描かれています。深名線に気動車が走り始めたのは昭和30年4月で、湖畔仮乗降場が出来たのは昭和31年5月なので、この図表は昭和30年4月から31年5月までの間に作成されたものと思われます。仮乗降場としての宇津内がいつ無くなったのかはよくわかっておらず、この図表から廃止年月日を探る事は出来ませんが、とりあえず、仮乗降場として宇津内が生きていて、気動車列車の一部が停車していた事が この運転図表からあらためて証明されました。博物館の学芸員さんに この図表がいつのものなのか尋ねてみたところ、『私は鉄道は専門外なのでわからないんです』 と言われたものの、わざわざガラス棚の鍵を開けて巻物状になった図表を開いて調べて頂けましたが、残念ながら作成年月日は書かれていませんでした。」


◆北見大橋様、いつも貴重な情報をありがとうございます。


3.宇津内駅の位置について

 それにしても、航空写真などを見る限りこの辺りは鬱蒼とした深い森林地帯で、集落を形成できそうな平地の空間も見当たらないため、本当にこんな所に駅があったのだろうかという疑問が湧く。当時は大規模に森林が伐採されて、現在よりは"風通しがよい"状態だったには違いないが、それにしてもという感じがするのである。宇津内駅の位置は「深川起点85.0km」というデータを信用すれば、朱鞠内から宇津内トンネルを抜けて約2kmほどの地点と見られ、丁度その辺には"朱鞠内湖と宇津内湖を結ぶ水路"があるとのことで、線路とこの水路が交差する辺り(左図X地点付近)を候補に挙げている研究者の方が多いようだ。「道道・蕗の台朱鞠内停車場線」は北大演習林の西を通って宇津内湖の左側を迂回するコースを採っており、線路が走っている宇津内湖と朱鞠内湖に挟まれた区間へ向かうには雨竜第ニダム付近から右に入る小さな林道(?)を進むしかないと思われるが、それも蕗ノ台の手前2kmで行き止まりになっていて、かなり以前から自動車による寄り付きは厳しい場所ではなかっただろうか。「国土交通省サイトの航空写真」(昭和52年撮影)を見ると、そのヒョロヒョロ道からさらに横断水路の朱鞠内湖側水門に向かう小さな枝道(左図赤線)が写っており、しかもそれが線路にぶつかる地点で行き止まりになっているため、この地点を推される研究家の方もおられる。(近年の国土地理院発行の地形図(1/25000)にはこの枝道は記されていない模様。)また、現在では深名線自体が廃線となっているため、一部の区間では路盤を歩いて探索することも可能と思われるが、実際にその辺りに到達して遺構と推測されるコンクリートの塊を探り当てた方もおられるようだ。
 実は、深名線廃止の数年前に全線の車窓を連続撮影したことがあり、ひょっとしたら宇津内駅跡の痕跡を見つけることはできないかと思い、今回8mmを詳しく再点検してみた。廃駅から50年以上も経つと跡地に大きな木々が成長する可能性もあり、現在の地形だけで判断することはあまり意味がないかもしれないが、駅を造るにはある程度まとまった広さの平地が必要であること、線路面からあまりに急激な高低さがあることは考えにくいこと、駅舎の基礎などコンクリート土台の部分は大木が育ちにくいと思われることなどを考慮して、それらしい地点をピックアップしてみた。このとき乗車した列車は朱鞠内―蕗ノ台間10.7kmを丁度16分かけて走ったため、1分間当りの平均走行距離は670m弱となり、仮に全区間を等速で運行したと仮定した場合の「深川起点85.0km」地点の到達時間は朱鞠内駅発車から"9分16秒"と算出できる。しかし、実際には途中で湖畔駅(仮乗降場)に停車したり、上り勾配やカーブによる減速が予想されるため、"9分16秒から最大で11分00秒"の間と推理し、かつ駅舎が車窓左側にあったと仮定して、上記に相当するような適当な平地がないか探してみた。見つかったのは下の2箇所で、左画像が"10分01秒"、右画像が"10分42秒"の地点に相当する。右地点などは線路面とほぼ同じ高さのきれいな平地で、草木の繁茂も見られず、少なくとも以前に何らかの構造物があったのは間違いないと思うのだが...。皆様はどう思われるだろうか。


 その後、宇津内駅の位置特定に関して「国土変遷アーカイブ空中写真閲覧システム」(国土地理院)に丁度、昭和22年(1947)米軍撮影の古い航空写真があることを池田氏より教えて頂きました。早速閲覧したところ、写真はモノクロですが縮尺は"1/15772"で十分な解像度があり、「上図X地点よりもう少し北数百m付近」にそれらしき構造物が写っていました(左図)。少し路盤が広がっている場所が、筆者には"島式ホーム"に思えたのですが、いかがでしょうか?また、その西側には比較的大きな2棟の建物(?)がはっきりと写っており、森林の開け具合を見ても、駅舎の位置はやはり「名寄方向に向かって左側」と考えてよさそうです。しかし、想像よりも駅構内は狭い感じで、集落の規模も蕗ノ台や白樺よりも小さかったことがうかがわれます。なお、この"旧駅前集落"と思われる森林が疎らな一帯は、昭和52年撮影の航空写真でもはっきりとわかるため、やはり深名線晩年の車窓でも十分確認できたのではないかと思われます。


◆池田様、本当にありがとうございました。


 その後、北見大橋氏より「日本鉄道名所 勾配・曲線の旅」(小学館・昭和62年発行)という書籍があることを教えて頂きました。氏によると、この本に記載されている深名線の勾配・曲線図から、宇津内駅の位置は「深川起点85キロ地点で、朱鞠内から走ってきて上り25‰の終盤で宇津内トンネル(記載はないが海抜300mの黒い部分)を抜け、下り20‰から上り3‰(ほぼ水平)に移行した後、海抜302m40の地点からほんの少し蕗ノ台寄りのR1000の右カーブとR800の左カーブの間の、"すり鉢状"になったほんのわずかな直線区間にあった」と指摘されておられます。また、氏の調査により宇津内駅の駅舎は、やはり「名寄方向に向かって左側にあった」ことも判明しました(下記「5.宇津内駅の廃止の経緯について」を参照のこと)。
 そこで、(筆者は列車のダイヤグラムや線路の勾配図には全くの素人ですが、)この勾配図を見る限り宇津内駅の数百m蕗ノ台寄りがまた25‰の上りになっているため、線路の曲線具合はわからなくても列車の運行速度(ビデオ上の車窓が流れる速さ)を調べれば、ひょっとしたら宇津内駅の車窓位置が特定できるのではないかと思い、上記の8mmビデオを再検証してみました。
 その結果、上記左上の画像地点(タイムスタンプ"10分01秒")では列車のスピードがかなり遅く、まだ上り勾配にある可能性が高いこと、また右上の画像地点(同"10分42秒")付近では下りまたはほぼ水平勾配が予想されるものの、高い樹木に覆われていない平地面積があまりに少なく、新たな資料から浮かんできた駅周辺像と符号しないことがわかりました。また、深名線の当時の時刻表を見ると、下りでは朱鞠内→宇津内間が約16分に対して宇津内→蕗ノ台間が約12分となっていて、この運行時間比率をそのままこの列車に当てはめると、宇津内駅の地点は"9分17秒"となり、はからずも以前の予想位置("9分16秒")とほぼ同じになってしまいます。しかし、実際のビデオ画像では宇津内トンネルを抜けるのが"7分55秒"頃とみられ、"9分17秒"付近ではやはり速度的にも肉視的にも上り勾配に見えます。したがって、湖畔駅停車による時間的ロスが想像以上に大きいと考えるほかはなく、結論的には左の画像地点("10分55秒")を最終候補としました。以前に挙げた2つの候補地に比べると草木が多く雰囲気には欠けますが、地形的は水平に近くてまずまずの広さがあり、ここに宇津内駅があったとしても不思議ではないと思われます。

◆北見大橋様、重ね重ね本当にありがとうございました。


 さらにその後、"Pacirugo"氏より"YouTube"に投稿されている廃線間際に撮られた深名線(車窓)動画を分析した結果を送って頂きました。それによりますと、一部の動画(前面展望)には宇津内駅跡と思われる平地が写っており、それは上記筆者の最終候補("10分55秒")と同一地点である可能性が高いとのことです。また、"雨竜第2ダムから伸びる例の林道"や"ダム職員のものと思われる自動車"が写っている動画も紹介して頂き、加えて「上記"10分42秒"の画像はその林道ではないか」という鋭いご指摘も頂戴しました。(「当初は人が二人並んで通れるぐらいの幅があった模様ですが、とても車が通れる幅とは思えませんので、後年林道の拡張工事が行われたのは確実でしょう。」とのことでした。) 筆者も"Pacirugo"様の分析通りではないかと思います。

 その後、上記動画を"YouTube"に投稿されている"てんぽく(天北工房)"様 (HP「少し昔の(+最近の)北海道の鉄道」) 並びに"Pacirugo"様のご厚意により、問題のシーンを掲載させて頂くことができました。下記に紹介する画像は、A1〜A17が"てんぽく(天北工房)"様投稿の動画「014 前面展望 北海道 深名線(下り) 朱鞠内 → 名寄 8倍速」(http://www.yos.ne.jp/tempoku/video-shinmeiD2S8.html)、B1〜B3が同じく「011 前面展望 北海道 深名線(上り) 名寄 → 朱鞠内 8倍速」(http://www.yos.ne.jp/tempoku/video-shinmeiU1S8.html)からキャプチャしたもので、編集及びコメントはすべて"Pacirugo"様によるものです。

(1)「前面展望 北海道 深名線(下り) 朱鞠内 → 名寄 8倍速」 (http://www.yos.ne.jp/tempoku/video-shinmeiD2S8.html)
「 朱鞠内発名寄行きの下り列車から撮影されたもので、タイトル通り前面からですので線路の形状がはっきりわかります。しかも草木の枯れた11月であるのも好都合です。残念なことに8倍速で編集されているため画質は良くありません。8倍速ですので、朱鞠内からわずか56秒で宇津内トンネルに到達します(A1)。宇津内トンネルを抜けると航空写真に写っている通りに(当然ですが)、R600の左カーブ(A3)、直線(A4)、R800の短い左カーブ(A5)の順に通過し、A6の短い直線に差しかかります。ここでは左側に背の低い柵が現れ、A8の右カーブの手前まで続きます。100m以上はあるでしょうか。左側に見える斜面が崩れた際に、土砂が線路上に流れ込むのを防止するため設置されたと思われますが、この高さで足りるのか疑問です。もっとも斜面の表面はコンクリートが吹きつけられているように見えますのでもはや用済みなのかもしれません。この区間は航空写真にもはっきり写っているように広範囲で樹木が伐採されています。人の手が入っているのは間違いありませんが何を意図していたのでしょうか。
 A9の直線、A10のR1000右カーブを抜けるといよいよ宇津内駅があった直線に差しかかります。良く見るとA10には線路を横切る砂利道らしきものが見えます。ここは宇津内湖と朱鞠内湖を結ぶ連絡水路のほぼ真上ですので、雨竜第二ダムから伸びる例の林道だと思われます。A12からA17が宇津内駅のあった直線です。A13、14では線路右側にちょうど線路1本くらいの幅で木の生えていない部分が続きます。かつて側線があった跡でしょうか。そしてA15で線路左側に木の生えていない平坦な部分が写ります。ここはR600の左カーブが見える直線の名寄側にあり、私にはホームの名寄側の端の跡に思えるのですがいかがでしょうか。ここを過ぎると線路左右両側が斜面になり、線路際まで白樺が生えています(A16、17)。ある程度予想してはいたのですが、直線部の線路左側にまとまった平地は確認できません。通常速度で見ればあるのかもしれませんが。」

(2)「前面展望 北海道 深名線(上り) 名寄 → 朱鞠内 8倍速」 (http://www.yos.ne.jp/tempoku/video-shinmeiU1S8.html)
「 次の動画は先の動画と対になるかたちで、名寄発朱鞠内行き上り列車から撮影したものでおそらく同じ日の撮影と思われます。ただ午後の遅い時間の列車のため、全体的に暗くて見難いのが残念です。例の柵の位置から逆に見ていくと、B1のあたりがA15を名寄側から見たものになります。線路右側の木の生えていない平坦な部分ですが、あまり奥行きはないように見えます。この2秒後に林道と線路が交差する地点に到達します(B2、3)。名寄側からみると林道の存在がはっきりします。ここで注目すべきは線路右側に車と思しきものが見えることです。一般人がここまで来ることはまずないでしょうから、連絡水路の点検に来たダム職員の車でしょう。雨竜第二ダムからでもかなりの距離がありますし、ヒグマに遭遇する恐れも考えると、車で行けるように林道の改良工事が後年行われたとしても不思議ではありません。いずれにせよこの動画が撮影された1990年11月の時点でこの林道が現役であったことがわかります。」

◆"Pacirugo"様、今回も本当にありがとうございました。(色々とご尽力頂き、誠に恐縮です。) また、"てんぽく(天北工房)"様のご厚意には深く感謝致します。


4.宇津内駅の構内配置について

 宇津内駅と同時に開業した蕗ノ台・白樺・北母子里の各駅が揃って「島式ホーム」を採用し、いずれも名寄方向に向かって左側に駅舎が造られていることから、やや根拠は薄いが宇津内駅も同じ構造であったと推理したい。ただ、ダム関係の大量の建設資材やおびただしい原木貨物を扱っていたはずなので、たくさんの側線・引込み線などで構内は意外と広かったのではないだろうか。旅客列車が少なかった分、むしろ貨物専用列車の停車本数が多かったことは想像に難くない。但し、それも昭和24年3月までで、"仮乗降場"になってからは当然貨物の取扱いを廃止したものと思われ、構内設備も整理されて晩年の蕗ノ台・白樺駅のように片面使用の簡単なホームに改められた可能性もある。この辺りは本当に想像の域を出ないが...。
※ トップの写真を見て驚いた方もおられると思いますが、大方のご想像通りCGによる合成画像です。どんな感じか自分でも確かめてみたかったので創ってみました。あしからず、お許し下さい。ただ、昭和20年代前半は駅名標もまだ「右から左書き」のままだった可能性が高く、少なくとも一般駅時代は最後まで「いなつう」ではなかったかと思います。"仮乗降場"時代は、昭和30年頃までに白樺駅のような「左から右書き」のものに交換された可能性もありますが、既に当局が正式な廃止を検討していた時期ならば、意外とそのままだったかもしれません。写真が出てくればよいのですが、物資欠乏の時代なので望みは薄いと思われます。(期待できるとすれば"幌加内町史"くらいですが...。)


 その後、"ekinenpyou"氏よりメールを頂戴し、当時の"停車場平面図"から宇津内駅の詳しい構造が明らかとなりました。
・駅舎の位置について
 「駅本屋は島式ホーム南端付近の西側に位置しており、当HPの推測図(上)よりも若干南にあった模様で、隣接する大きな2棟の建物については"官舎"と記載があります。」
・ホームの構造・構内配線について
 「"島式ホーム"のみで白樺・蕗ノ台にある側線・場内信号機もないシンプルな配線になっています。図面記載の年代が"S16.11現在"とありますので、深名線全通(S16.10.10)直後の開業当時ものと考えてよいと思われます。」
とのことでした。
 ちなみに、"ekinenpyou"様によると、隣の蕗ノ台駅のほうは白樺駅とほぼ同等の配線(島式ホームに側線と貨物積卸線を持っているタイプ)で、駅名標の表記変遷が何回かあったらしく、昭和40年代撮影のものは"こはん"(湖畔仮乗降場)を隣駅として表記していること、またホームについても冬季休止後間もない昭和53年頃はまだ"移動式"ではなかったようだ、とのご指摘も頂きました。

◆"ekinenpyou"様、今回も本当にありがとうございました。


 さらにその後、"Pacirugo"氏より「宇津内駅から北母子里の学校へ通っていたという方からメールを通して宇津内駅について教えていただくことができました」という耳寄りな情報を頂戴しました。氏のご好意によりメールの内容をご紹介致します。
1) 宇津内駅のホームは推測通り、名寄に向かって左側にあったそうです。本線のほかに待避線があり、機関車を回転させる装置(転車台と思われます)もあったそうです。
2) 宇津内駅の位置について伺ったところ、『宇津内駅から線路上100mから200m名寄よりのところからまっすぐダムに下りるとダムの水門にたどり着きます。』(原文のまま)との回答でした。「名寄より」は「朱鞠内より」の間違いだと思われます。また「ダムの水門」は雨竜第二ダムのことです。こちらも推測通りの位置で間違いないと思います。「R1000の右カーブとR800の左カーブの間の直線部分」とも一致します。
3) 保線区職員のための宿舎が2棟(3、4軒が棟続きになった平屋)あったそうです。航空写真に写っている2棟の建築物のことだと思います。この他に駅長用の一戸建て平屋の宿舎があり、他の駅員は朱鞠内から始発列車で通われていたそうです。この宿舎以外の人家は宇津内には無かったそうです。これらの宿舎はホームから見上げる位置にあったそうで、駅前は思われるほど平坦ではなかったのではないでしょうか?
(官舎についての補足) 『国鉄宿舎は、ホームから見上げるかたちで二、三十メートル上(駅舎の右側の小高い山)にあった』とのことです。駅長用の一戸建て官舎はかなりの高台にあったように思われます。保線区職員用の官舎はホームのそばに写っていますので、両者は離れて建てられていたのかもしれません。米軍撮影の航空写真にも写っているはずですが、解像度のためか判別できないのが残念です。
4) 宇津内駅の利用者について伺ったところ、鉄道関係者以外はほとんどなく、猟師とヤツメウナギを取りに来る人の2人くらいしか見たことが無いそうです。 宇津内駅を存続させたのは、無人化されたあとも保線区の職員やその家族が引き続き住んでいたからではないかと推測しています。

◆"Pacirugo"様、貴重な情報を本当にありがとうございました。


5.宇津内駅の廃止の経緯について

 昭和18年にダムが完成してからは建設資材の供給基地としての役割を終え、また周辺地域での木材の切り出しが一段落したために、貨物の取扱い量が激減し、さらにはそれら関係者住居の集団移転が進んだ結果、旅客の需要もほとんどなくなって急速に廃止に向かったと推測される。この時期の廃駅は"余程のこと"ではないかと思われるが、もともと人も住まない極寒の地に"にわか作りの工事用集落"が形成されただけだった可能性が高いので、無理からぬ話ではある。昭和24年の時点で、果たして周囲に人家などがあったのか、あったとすればどれくらいの規模だったのか、当局が完全な廃止とせずに異例な"仮乗降場"として存続させた背景、昭和24〜31年の営業状況(時刻表に記載されていたのか)など、興味は尽きない。何か情報をお持ちの方がおられましたら、是非ご一報下さい。


 その後、廃止後の宇津内駅に関するあっと驚く情報を北見大橋氏から頂戴しました。なんと「解体された宇津内駅の建物が、昭和30年に開業した留萌本線北一已駅舎に流用されている」というのです。
 北見大橋氏によると、情報源は旭川市中央図書館に収蔵されている「一已屯田開拓史」(平成6年発行)という"一已村村史"のような資料で、"村の昔を知る年配"の思い出話・苦労話のページに「少年時代と北一已駅のこと」と題したある男性の回想記事があり、当時、長い請願の末に漸く設置が決まった北一已駅の造成工事に地元の方々が労力奉仕したことが書かれていて、その中に『(北一已)駅舎は、深名線の宇津内駅を取り壊し、これを持ってきて建てたのです。この駅は朱鞠内ダムを造るとき、切り倒した木材を搬出するためにつくられた駅で、当時は廃駅になっていました。(私も)この駅舎の取り壊し作業にも出役しました。』という文が含まれていたそうです。北見大橋氏のお話では、多少の改修工事は行われているものの、北一已駅の駅舎は現在も基本的に開業当時のままなので、「これを持ってきて建てた」という表現からみて、これが"移設"に近い形ならば、木造建物の大半に今も旧宇津内駅舎の部材が残っている可能性が高いとのことでした。この事実は、宇津内駅舎の構造(蕗ノ台や白樺と同様"建物の左側に玄関がある"等)を推定する貴重な資料を提供すると共に、北一已駅開業前に「駅舎の取り壊し作業にも出役」という文面から、昭和24年の廃駅後も暫くの間は(あるいは昭和29年近くまで)、駅舎がすぐに解体されず、そのまま現地に残っていた証拠ともなりそうです。また、北見大橋氏は「幌加内町史」(昭和46年発行)や北大鉄研が編纂した「混合列車」(平成5年発行)という文献などを挙げて、やはり宇津内駅はあくまで「ダムのための駅」であり、「当時も"宇津内地区"と呼ばれるほどの集落は形成されていなかったのではないか」とおっしゃっておられます。私も氏の意見に同感です。
 なお、余談ですが、「幌加内町史」には宇津内駅について「開駅当時は駅長以下6名の職員が勤務」「昭和23年ごろには貨客の取り扱いがほとんど皆無」とある他、4人の歴代駅長の実名と在任期間も掲載されており、最後の駅長(4代目)の任期が昭和20年3月〜23年6月となっていることから、廃止間際の10ヶ月程は少なくとも"駅長無配置"であったことも併せて判明しました。また、上記「混合列車」に掲載されている昭和16年10月の深名線全通時のダイヤ資料から、北見大橋様は「蕗ノ台と朱鞠内の間が(閉塞)『3』になっているので、宇津内駅は蕗ノ台に似た"島式ホーム"だったとしても、『物理的には列車交換が出来る配線の造りだが、閉塞扱い(絶対信号)の無い有人駅』であった」と指摘されておられます。


 さらにその後、再び北見大橋様より「わたしたちの幌加内」という非常に貴重な文献資料を紹介して頂きました。この冊子は、昭和44年に幌加内町教育委員会が発行した"小学生向けの地元郷土に関する副読本"で、その中に"ある親子が車(沼牛→朱鞠内)と汽車(朱鞠内→母子里)を使って「町めぐり」をするというストーリー"が設定されており、次のような耳寄りな文章が載せられていたといいます。
 「朱鞠内から名寄行きの汽車にのりかえました。汽車は山をのぼり、トンネルをでると右がわに朱鞠内湖が見えてきました。おとうさんは、『むかし左がわには、うつない駅があり、鉄道につとめているほせん係りの人たちがすみ、線路のしゅうりをしていたんだよ。また、夏になると木を切りたおす人、このかげにある、だい二ダムなどにつりにきた人たちも、うつない駅でのりおりをしたものだよ。』となつかしげに話をしてくれました。」
 平仮名が多くて幼稚な印象は受けますが、内容は極めて重大で、@やはり名寄方向に向かって左側に駅舎があったこと、A"線路班"のようなものが置かれて主に保線職員が定住していたこと、Bその他は伐採業務に従事する人や雨竜第2ダムで釣りをする人などが夏の間だけ利用していた、実態がうかがわれます。
 また、北見大橋様の調査によると、「幌加内村史」(昭和33年発行)に「(当時)朱鞠内市街には旧市街(「朱鞠内第ニ」)と新市街(「朱鞠内第一」/昭和26年よりさらに南北に分割)があって、旧市街は第二部落に所属し、朱鞠内小学校、大学演習林看守所、朱鞠内湖第一、第二堰堤および事務所、法泉寺、光顕寺と数軒の商店がある」という記載があり、朱鞠内からかなり奥に入った第二堰堤(雨竜第二ダム)までもが「朱鞠内第二部落」に含まれている事実と、昭和30年の国勢調査の部落名に「宇津内部落」が個別に設けられていないことから、(もし当時も人が住んでいれば)宇津内在住の鉄道関係者などは朱鞠内第二部落の人口(69世帯380人/但し昭和30年頃)に含まれていたのではないかと指摘されておられます。
 余談ですが、件の国勢調査集計表(昭和30年)には、「蕗ノ台第一」(駅周辺/22世帯103人)、「蕗ノ台第ニ」(駅から1キロほど離れた小学校等がある開拓地の辺り/27世帯124人)、「白樺」(14世帯100人)、「雨煙別」(47世帯332人)など今では想像できない人口(幌加内村全体では2072世帯12107人)が記載されており、深名線廃止頃(平成7年/幌加内町全体で2400人)に比べると、いかに沿線一帯が開拓で活気を帯びていたかがわかります。


◆北見大橋様、本当にありがとうございました。



左・下: 留萌本線北一已駅舎(画像提供:"モリゴロウ"様)。"モリゴロウ"様の実地調査によっても、梁などに解体された"転用材"と思われる不可解な痕跡("穴"/赤矢印や"溝"/青矢印)が認められ、やはり宇津内駅舎を移築して造られた可能性が高いとのことでした。



左: 外壁をベニヤ板で補強される前の北一已駅舎(画像提供:澤田様)。澤田様によると、これを撮影した当時は駅前に休耕田や田畑が広がり、近隣には民家が1件あるのみ、徒歩20分圏内でも数軒の民家がある程度で、既に駅の利用者は数人であったろうとのことでした。



左: 10年位前の北一已駅事務室内部(画像提供:澤田様)。有人駅当時のものと思われる"金庫"や除雪道具などが残されているのみ。出札窓口の裏側にはカーテンがひかれていたようです。



左: 補強のため「グレー色のベニヤ板でガチガチに固められてしまった」という現在の北一已駅舎(画像提供:"北見大橋"様)。



左: 現在(平成25年8月)の北一已駅舎内部の様子。白いパネル板を剥がせば、出札窓口などがそのまま残っている可能性が高いとのことでした(画像提供:"北見大橋"様)。


6.宇津内駅の乗車券類について

 宇津内駅が有人駅として営業を行っていた期間(16.10.10. 〜 24.-3.31.)は丁度戦争による混乱期に当たるため、乗車券類の発売券種や様式などに例外的な措置がとられた可能性が高く、また過去にオークションなどで(宇津内駅発行の)実券を一度も見たことがないので、やはり確かなことは何も言えない。全部推測になるが、開業当初(少なくとも最初の2〜3年位)はほぼ正常な設備・出札が行われたのではないか、左図のような入場券(最初は5銭券?)もちゃんとあったのではないかと思われる。この時期の入場券については日高三股駅長氏のHP(「秘境日高三股へようこそ!」)に非常に詳しい研究が掲載されているので、是非ご覧頂きたい。氏のHPによると、昭和19年頃からは戦況悪化に伴い入場券の発売を停止する駅が多くなり、戦後は昭和23年11月頃から漸く一部の駅で発売が再開されたことが記されており、宇津内駅廃止直前の時点で入場券の発売があったかどうかはかなり微妙だ。しかし、一応、戦後間もなくは幾たびかの値上げにもかかわらず小駅では戦前の10銭入場券を流用していたこと、しかも料金変更印を押さずに発売した例が多かったことを考慮し、左図のような券を推理してみた。昭和23年7月から額面は3円に値上げされているが、氏によると北海道地区においては"3円券の硬券自体が確認されていない"とのことなので、本当に硬入が実在したならば可能性は高いと思われる。