【切符蒐集を考える(その3)】


1.昔はよかった

 時々昔の鉄道雑誌や乗車券専門誌を読み返すたびに、つくづく「昔はよかったなあ」と思う。鉄道の歴史はたかだか200年にも満たないが、近年、急速に筆頭交通輸送手段としての地位を失い、自動車や航空機がこれに代わりつつあるのは周知の事実だ。先日、小牟田哲彦氏の「世界の鉄道紀行」(講談社・2014年)という本を読んだが、鉄道、特にローカル線における状況は世界的な流れになっているらしく、先進国のみならずアジアや南米の開発途上国でも路線廃止・運休や運転本数の激減が相次いで、"鉄道マニア垂涎"の鉄道遺産が各地で廃墟、鉄屑と化しているという。
 鉄道の経営維持には想像以上の経費が伴う。もともと大量輸送を前提に構築された交通システムであるため、レールの敷設自体は割安に行われても、車両や停車場をはじめ保線・修理などの設備が大掛かりで、それらを最低限の投資で済ませるよう努力しても人件費や車両等の修繕費用を少ない運賃収入だけで賄うには限界があり、事故や災害により非常に高額な車両や橋梁などを失うとたちまち経営が破綻してしまうという現状がある。それでも、大都市近辺では人口の過密と道路の渋滞事情が幸いして、JRや大手私鉄*)を中心に必ずしも黒字とは言えないながらもなんとか鉄道事業が維持されており、また近年は環境破壊や省エネルギー対策の一環として鉄道が見直されているのも確かではあるが、それとて電気自動車や新交通システムの出現により、いつまで持ちこたえられるのか危惧されるところである。鉄道マニアにとって、幹線を走る華やかな特急列車もそれなりに人気はあるが、筆者の場合はむしろ人口の少ない田舎を細々と運行している地味なローカル線の方にどうしても興味がそそられてしまうので、このような鉄道事情は本当に残念という他ない。また逆に、赤字路線がなんとか維持されてきた最後の時代に遭遇できた幸運を思わずにはいられない。昨今も趣味としての鉄道人気は衰えてはいないようだが、鉄道雑誌などをめくっても昭和30〜50年代のダイヤ全盛期に比べるとあらゆる点でバラエティが乏しくなっているのは確かで、正直"平成生まれの鉄ちゃん(鉄子さん)"はかわいそうだなと思ってしまう.....。

 前置きがかなり長くなってしまったが、かくの如く急速に衰退する鉄道文化の中でも、特に最近目に見えて影を失いつつある筆頭格が「硬券きっぷ」ではなかろうかと筆者は思う。イギリスの鉄道員トーマス・エドモンソンが"A型"の原型である2 1/4 X 1 3/16インチの厚紙製乗車券と出札管理システムを発明したのは1836年頃と言われているが、それからわずかに180年足らず、現在実際に硬券のきっぷをメインに扱っている日本の鉄道会社は全国に十数社ほどしかない。しかも、割合に鉄道需要があり乗車券類が大量に発行される大都市圏ではほとんど完全に姿を消してしまい、国鉄(JR)の各印刷場(8ヶ所)も廃止された今、民間の小さな印刷業者によって細々と維持されているのが現状で、加えて近年は専用印刷機の老朽化とコンピューター制御のオフセット(平板)印刷の普及によって、昔ながらの"味のある"硬券を見掛ける機会が本当に少なくなってしまった。
 極最近はそのような硬券事情を念頭に、商魂たくましく逆に硬券による各種記念券の発行や中には硬券入場券だけを新たに各駅に配備する中小私鉄もちらほらと見掛けるようにはなったが、鉄道会社の"お情け"という感じは否めず、昔を知るきっぷマニアにとってはお寒い現状と言ってよい。


左: 今はもう見ることができないJR駅の硬券出札風景。JRの硬券が廃止されて、はや20年。あの時に、あの券を買っておけばよかった、躊躇せずに「その切符を売って下さい」と言えばよかった、勇気を出して「他にどんな切符がありますか」と聞けばよかった、あの時代に戻りたい、と後悔の念ばかりが募る。自分で言うのもなんだが、筆者は昔からかなりシャイな人間だったので、当時は初めての駅に立ち寄ると、まず出札職員に気付かれないように窓口の"死角"から乗車券箱に貼られたラベルを覗き込み、口座を確認してから"さも一般客のフリをして"欲しい切符を入手していた。しかし、各"硬券差"に貼られた小さな文字は遠目には非常に読みにくく、意味不明の略称も多く使われていて、どんな券が設備されているのか十分に把握することはほとんどできなかった。本当にこんなことになるなら、"なりふり構わず"丁重にお願いして確認させてもらえばよかった、と今では思う.....。


左: 昭和末期に流行った国鉄・硬券入場券の買い歩き。この頃までは硬券を扱っている駅も多かったので、周遊券と時刻表を片手に各駅を渡り歩くのが楽しみの1つだった。但し、昭和58年以降に無人化・廃止のものはあまりプレミア的価値はない。先日、某ネットオークションに北海道の士幌線幌加駅(昭和45年無人化)の20円券が出品されていたが、落札価格はなんと90,000円。ちょっと"行き過ぎ"の感は否めないが、希少な券に対する人気は今もなお健在のようだ。

 自動券売機の"ペラ券"しか知らない最近の若い人が硬券(特に国鉄仕様の券)を手にすると、まずはその"立派な造り"に驚くという。硬券の製造コストはよく知らないが、例えば隣駅までのほんの小区間1回きりの乗車利用のために、これほど重厚で緻密な印刷を施した厚いキップが必要であろうかと、筆者ですら考えてしまうことがある。諸外国の簡素なきっぷを目にすると、特に日本の硬券の出来は非常にすばらしいと私は思う。コンピューターがなかった時代では、きっぷに連番を打って簡単に売上計算ができるこの硬券システムは、それなりに合理的で、出札の手間も少なく、エドモンソン以来の慣習と伝統がなんとなく引き継がれてきたにしても、(風前の灯火とはいえ)今も現役であることは逆に不思議ですらある。明らかに"硬券きっぷ"は時代に合わなくなっており、台湾・韓国をはじめ世界的に見ても状況は同じである。しかし、超閑散路線にしても"秘境駅"にしても、むしろそのような鉄道の"ムダな部分"、合理的に考えれば淘汰されるはずの鉄道遺産やシステムに、却って強く心を惹かれてしまうのは筆者だけではないハズだ。


上: 昭和41年頃まで種別用赤線(赤縦条)が加刷されていた国鉄の急行券。この時代の硬券が最もデザイン的にすばらしく、美しいと筆者は思う。


注)
* 筆者は別にプロ野球ファンではないが、大手私鉄14社(系列)のうち阪神(タイガース)・東急(フライヤーズ)・西鉄(ライオンズ)・南海(ホークス)・阪急(ブレーブス)・近鉄(バッファローズ)・西武(ライオンズ)の7社までがかつて球団を保有した経験があり、全盛期にはパ・リーグ6球団のうち4球団を鉄道系で占めたこともあった。(今は、"虎キチ"が頑として球団売却を許さない老舗・阪神と案の定売却話がチラホラ出ている弱小・西武のみ。) そして、極めつけは国鉄(スワローズ)! そう、あの大赤字で消えていった国鉄が(厳密にはオーナーではないが)プロ野球に手を出していた時代があったのだ(昭和25〜40年)。........ホントに昔はよかった。



2.硬券サイズのよもやま

 トーマス・エドモンソンが発明した"A型"(2 1/4 X 1 3/16*インチ。国鉄「旅規」では昭和34年以降 3 X 5.75cmと規定)を含めて、硬券には4つのサイズがある(2.硬券について 参照)。しかし、A型以外の3サイズは諸外国では稀で、特に"B型"(2.5 X 5.75cm)は昭和3年頃に有楽町印刷場で発明された日本独自の様式と言われている。1枚の硬券板紙から少しでも多くの製品を得るために"小裁ち"枚数を2片多くしたのがきっかけで、戦中・戦後の物資難の時代に重宝された。(そのため、旧占領地域にあった韓国・中国などでは戦後も引き継がれたという)。硬券のサイズを5/6に縮小しても昨今ではそれほどの節約効果はなさそうだが、なぜかB型は今も立派に現役で、A・D型より安価で手に入る場合が多いこともあり、むしろマニアにはなじみが深い。"C型"(6 X 5.75cm)は裁断・印刷に伴うロスが大きいうえにかさばって扱いにくいため、昭和末期に姿を消した。また、"D型"(3 X 8.7cm)は大正4年頃には出現していたが、補充式・準常備式に多用されたため最初の頃は切断されてしまうことが多く、現在のようにフルサイズで旅客に渡るようになったのは昭和40年頃からと言われている。確かに、指定券類など記載事項の多い券種では、トラブルを防止する意味で有効な方法と言えよう。
 当然のことながら、これら4種類のサイズは用途によって使い分けられており、国鉄では旅客営業規則や各種公示等によりかなり細かい規定があった。概ね、

 A型: 中・長距離乗車券や近距離常備往復乗車券、(特に自由席の)料金券など
 B型: 近距離乗車券(発売当日限り有効)や入場券など
 C型: 準常備または補充往復乗車券や昔の結合料金券など(但し、現在では中小私鉄でも稀)
 D型: (特に指定席の)料金券や(長距離)常備往復乗車券、記念乗車券・入場券・乗車証明書など

という原則はあったが、時代が下がるにつれてA型はやや減少し、代わりにB・D型が増加する傾向があり、"硬券末期"には例外も多く見られるようになって、違和感を感じたコレクターも多かったのではないかと思われる。ここでは、そんな「おやっ?」と思ってしまう不思議な事例も含めて、主に近年の国鉄(JR)における硬券サイズに関する話題を紹介してみたい。

上: A型からB型に変更された近距離片道乗車券(門司印刷場)。国鉄では昭和33年10月より20kmまでの列車区間の片乗に「相互式」「矢印式」「地図式」(いずれもB型)を使用してもよいことになったため、これに合わせて「一般式」についても20km以内はB型で印刷されるようになったと考えられる。戦後十数年も経って、もはや物資難の時代でもなかったはずなのに、なぜ再びサイズダウンされたのかよくわからない。結局、このときの改訂がきっかけで"B型"の存続が決定的になった模様だ。


左: A型からB型に変更された中距離片道乗車券(名古屋印刷場)。印刷場単位のはっきりとした時期は不明だが、昭和55年4月の制度改訂以降、51〜100km区間の中距離片乗も少しずつA型からB型に変更された。恐らくは100km未満の区間が「発売当日限り有効 下車前途無効」の扱いとなり、近距離と中距離を区別する意味がなくなったためと思われる。名古屋印刷場(金沢・名古屋・静岡鉄道管理局管内)の他では、東京印刷場(東京北・東京南・東京西・千葉・水戸・高崎鉄道管理局管内)・新潟印刷場(秋田・新潟・長野鉄道管理局管内)・門司印刷場(門司・熊本・大分・鹿児島鉄道管理局管内)などが早かったようだが、札幌印刷場・高松印刷場など最後までA型だった所もあり、なぜか統一がとれていなかった。また、東京印刷場では同時に、時代に逆行するかの如く「一般式」から「地図式」が多く採用されたのは周知の通り。さらに、門司印刷場では「地図式」に限り引き続きA型が使用されるなど、各地で例外も多数発見されている。(その後の調査により、仙台印刷場の券で「会津若松から(北)郡山ゆき」など、逆にB型からA型に変更された例があることも判明。)

下: 昭和55年4月の制度改正直後に同じ日付で発行された3枚の中距離片道乗車券(広島印刷場)。広鉄局では、局のほうでまとめて訂正のゴム印を作製し、長距離扱いだった残券(A型青地紋)を売り切ってから赤地紋(「発売当日限り有効 下車前途無効」)の新券(4枚目)に移行したらしい。結局、広島印刷場では51〜100km区間は最後(平成3年)までA型で通した模様。(「交通趣味」1986年3月号に姫新線「美作土居から姫路ゆき」のB型券が掲載されている。筆者が知る限り唯一の例外。)


左: A型で印刷された「金額式」片道乗車券(札幌印刷場)。札幌印刷場(青函船舶・札幌・旭川・釧路鉄道管理局管内)では硬券末期まで中距離の片乗はA型が踏襲されており、ほとんどが「一般式」だったが、一部の駅(稀に簡易委託を含む)にはこのような「金額式」の設備もあった。100km未満ぎりぎりの「1800円区間」の券も確認されていて、初めて見たときは違和感が大きかった。近年では「金額式」は最もポピュラーな券式ではあるが、却って珍品の範疇に入ると思われる。

下: 近距離区間なので本来ならばB型「金額式」であるところをA型「一般式」で印刷された片道乗車券の例。いずれも"縁起きっぷ"(「金山・鶴舞」「松波・恋路」(名古屋印刷場))や"開業記念"(「みどり湖」(新潟印刷場外注?))・"廃止記念"(漆生線(門司印刷場))など記念乗車券的性格が強いものが多い。また、「塩尻から みどり湖ゆき」などは"発売当日限り有効"にもかかわらず、なぜか青地紋で印刷されており、"三重の例外"が面白い。(ちなみに、この券は活字の違いや券番が4桁などの特徴から、民営化直前に廃止寸前の新潟印刷場が民間に印刷を委託したものと考えられる。)

下: A型で印刷された近距離区間の自動車線片道乗車券(名古屋印刷場)。"バス券"は全国各地で非常にバラエティがあり、全体を把握するのは難しい。鉄道線に準じて近距離は概ねB型(「一般式」「金額式」)が多いとは言えるが、印刷場によってはこのようなA型券もしばしば見掛ける。但し、"発売当日限り有効"ならば赤地紋、"2日以上有効"ならば青地紋という点は概ね共通している。(低額の"赤キップ"が復活した昭和50年頃以降の話。) 近距離のA型青地紋は比較的珍しいのではなかろうか。


左: A型で印刷された近距離区間の簡易委託片道乗車券(大阪印刷場)。大阪印刷場では、社線連絡券(原則A型)や民営化後の"他社関連"券(原則A型)も含めて「近距離の低額片乗」をA型で作った例が多数知られており、A型の低額簡託券も硬券が廃止になる直前までJR西日本管内の各地で見られた(宮津線栗田・岩滝口・丹後大宮、山陰本線養父・梁瀬・湯里、播但線新井、小浜線若狭和田・青郷、北陸本線西入善・王子保、大糸線中土、能登線珠洲飯田・正院など)。簡託以外では、湖西線唐崎駅(「叡山ゆき」等)や山陽本線高島駅(「岡山ゆき」)などに発売例があり、B型「金額式」とは別になぜA型「一般式」の券があったのかは謎。馬路駅(山陰本線)の場合も、硬券廃止頃までこの「仁万ゆき」A型券が売られていた模様だが、なぜか同一時期に同じ運賃のB型「金額式」もあったという。


左: A型で印刷された近距離区間のJR片道乗車券(名古屋乗車券管理センター)。当時、名古屋駅の自動券売機に140円区間の口座がなかったため、急遽臨時の窓口を設けてこの硬券を"手売り"したらしい。「発売当日限り有効」にもかかわらず最初は青地紋で出現したが、すぐに赤地紋に改められた模様(小児専用券もあり)。B型で印刷しなかったのは着駅名が長過ぎるから? 不思議なことに、"ナゴヤ球場正門前から名古屋まで"のほうはB型「金額式」だったという。


左: A型で印刷された宮島航路のJR片道乗船券(大阪乗車券管理センター)。"宮島航路絡み"の券(鉄道連絡を含む広島印刷場券)は、国鉄時代から近距離区間でもB型「一般式」が採用されるなど例外が多数確認されていたが、平成3年に広島乗車券管理センターが廃止された後は、それに加え一部の券が突如A型化されてマニアを驚かせた。(左の他にも、宮島口桟橋や広島駅発行の「宮島ゆき」など) わざわざA型に変更した理由は全く不明。


左: 例外的にD型で印刷された近距離区間の往復乗車券(札幌印刷場)。各印刷場とも「東京都区内」「大阪市内」などの長距離区間では珍しくはないが、通常はA型で印刷されるべきところを"駅名が長過ぎて入らない"ためにD型で作った例が知られている(他にも越美北線九頭竜湖駅など)。但し、高松印刷場(四国総局管内)だけは、かなり以前(モノクラス制施行以後)から近距離区間も含めて全ての往復券がD型で印刷されているという。


左: D型で印刷された通称・博多南線のJR片道乗車券・特定特急券(門司乗車券管理センター)。博多南―博多間はわずかに8.5kmで、本来ならばB型「金額式」で十分だが、"一応新幹線区間"であるためにわざわざ特別料金の新幹線特定特急券をセットにした「一般式」D型券が作られた。小児専用券とはいえ、140円で購入できるD型連綴式の券は前代未聞と思われる。(しかも、博多南―博多間は本来"JR西日本"の所有なので、これ以外に正規の?"(西)博多南駅発行"で全く同様式・大阪印刷の[西]券も存在したことがわかっている。) JR九州の博多南旅セの他、博多・吉塚・箱崎・香椎・海ノ中道駅などにも同様の券あったが、残念ながらJR九州の硬券廃止(平成7年6月)と共に姿を消した。

下: A型で印刷された一葉式の急行券・寝台券(名古屋印刷場)及び単独の寝台券(札幌印刷場)。寝台券は、昭和39年頃からほとんどが急行券・特急券などと"一葉化"(「急行券・寝台券」「特(別)急(行)券・寝台券」)されてしまい、加えて昭和40年10月以降は全国的にD型が普及して、昭和52年頃以降A型は稀少となる。"単独券"で生き残ったのは普通列車に連結された寝台車用のみで、「からまつ」(小樽―釧路間)の他は"近藤書"によると「ながさき」(門司港―長崎間)用のA型券が存在するとの話だが、残念ながら筆者はまだ目にしたことがない(D型券はよく見掛ける)。民営化後では、名古屋乗車券管理センター(JR東海)の他に東京乗車券管理センター(JR東日本)でもA型の一葉式"急行券・寝台券"があった模様だが、同時期既に"特急券・寝台券"のほうはD型化されており、何らかの理由で"使い分け"をしていた可能性もある。


左: A型で印刷された一葉式の急行券・指定席券(東京印刷場)。指定席券も、昭和45年頃からはほとんどが急行券とセットになった一葉式または連綴式の券ばかりになり、やはり全国的にD型が急増して昭和55年頃以降はA型が極端に少なくなる。最後までA型が残ったのは東京印刷場と名古屋印刷場と思われるが、民営化後の券が存在するのかどうかはよくわからない。(その後の調査で、名古屋乗車券管理センター(JR東海)の小田急連絡"急行券"(「あさぎり」号の指定券)がA型であったことが判明。但し、"赤地紋"のうえ「指定席券」の文字もなかったようなので、例外と見るべきかも。ちなみに、その後「あさぎり」号の特急化に伴い、この券はD型緑または黄地紋の「連絡特急券」に変わった模様。)

下: A型で印刷された(指定席)特急券(名古屋印刷場)。左が緑地紋の"通常期"券で、右が橙(淡褐色)地紋の"閑散期"券。指定席の特急券も最初は全てA型だったが、昭和53年頃以降は大部分がD型化してしまい、昭和末期以降はかなり稀となる。やはり名古屋印刷場の券が比較的多く、民営化後もJR東海(名古屋乗車券管理センター)で若干例がある(伊豆箱根鉄道に委託した「踊り子」号特急券など)。


注)
* 甚だ中途半端なサイズなので何か起源があるハズと思い、色々調べてみたがやはり不明。厚紙を均等に切断する場合、"手作り"ならば2等分を繰り返していくのが簡単なので、最初にこのサイズを作った人はたまたま手に入れた市販の"9 X 19"インチ(22.9 X 48.3 cm)の厚紙を64等分したのかも? あくまで想像ですが.....。



3.乗車券様式のよもやま

 普通片道乗車券には昔から色々な様式があるが、それぞれに一長一短がある。筆者は「矢印式」が最もシンプルでわかりやすいと考えているが、どうしても口座数を減らしたいのであれば、「地図式」はよい(但し"版組み"は大変)としても、今や大勢を占めている「金額式」などは乗車券としての最低条件を満たすだけで、とても理想的なものとは言えないと思う。一方、大昔からある「一般式」は、単純で明解という点では「矢印式」に引けを取らないが、全てを「一般式」で揃えようとするとやはり口座数が多くなってしまう難点があり、同一運賃の着駅が複数ある場合も、併記して収めるには限界がある(4駅以上は困難)。そのため、昭和初期まではほぼ100%を占めていたこの様式も、現在では駅数が少ない中小私鉄や連絡乗車券などの特殊なものを除いて、"遠くまで乗らなければなかなかお目に掛からない"ものとなってしまった。
 現行の「一般式」である「** から** ゆき」という書式は意外と歴史が浅く、実は戦後の昭和24年9月から始まったもので、明治5年の開業当初はカタカナと漢字が混じった「** ヨリ ** 迄」(駅名は漢字)という表現だった。その後、「** より ** まで」(駅名もひらがな/明治21年11月)、「** より **」(駅名はひらがなと漢字/明治30年7月)、「** より ** (間)ゆき」(駅名は漢字/明治42年12月)、「** より **」(駅名は漢字/明治44年11月)、「** より **」(駅名はひらがな/明治45年3月)、「** ヨリ **」(駅名は漢字/大正5年4月)、「** より ** ゆき」(駅名は漢字/大正9年12月) という具合に、短期間で非常に複雑な変遷を辿って現在の文言に落ち着いている。この「** から ** ゆき」という言い回しは、しばしば「愛(の)国から幸福ゆき」「天国から地獄ゆき」等々縁起物や揶揄の道具にもされているが、時代遅れの感はあるものの"なかなか味のある"表現だと筆者は思う。券売機(多くは「金額式」)や印発機(多くは三角「矢印式」)が増えた昨今では、残念ながらかなり"出番"は少なくなってしまったが、JRの硬券が廃止になる平成初年までは中長距離券を主体に全国各地でまだまだ現役だった。ちなみに、その他の様式の初出は「矢印式」が昭和3年9月(電車運賃特定区間用)、「相互式」が昭和7年8月(東京電車区間の復路利用)、「地図式」が昭和10年6月(新宿駅の券売機試用)、「金額式」が昭和19年6月(戦時措置の軟券)頃と言われており、もちろん各印刷場によって多少のばらつきはあるが、「金額式」以外の様式は概ね昭和45年頃までに全盛期を終えたと考えられる。ここでは、主に昭和末期以降の九州地区の「一般式」の話題を中心に、「地図式」「矢印式」などその他の様式も含め、筆者が承知している興味深い点について簡単に紹介したいと思う。

上: 門司乗車券管理センターが「開設100周年記念」で作製した古い「一般式」の模擬硬券。カバーケースには左が「鉄道開設当時(明治5年)」、右が「鉄道省当時(大正9年)」と記されているが、右は有効区間がまだ"ひらがな"書きで、明治45年3月券式と大正5年4月券式が折衷したものとなっている。この後、@有効区間を「左から右」書きに変更 A発行日付を「年月日」の順に変更 B地紋色を1等「淡黄色」/2等「淡青色」/3等「淡赤色」に改正した"大正9年12月1日券式"が、概ね現在の「一般式」の原型となった。

上: 昭和50年に発行された2枚の近距離片道乗車券(門司印刷場)。左は筆者の記念すべき"コレクション第1号"で、実際に日豊本線幸崎駅で買い求めたもの。ちょうど近距離片道券の券式が変更される端境期で、これ以前では概ね「矢印式」または「一般式」(右)だったものが突然味気ない「金額式」(左)に変わってしまい、子供ながらに"切符らしくなくなったなあ"と感じたことを覚えている。これ以降、門司印刷場(門司・熊本・大分・鹿児島鉄道管理局管内)では50kmまでのほとんど全ての片道券が「金額式」で印刷されるようになり、大学生の時分に帰省先の北海道で「新十津川から中徳富ゆき」に出会うまで、筆者はずっと"「金額式」以外の切符はなくなった"とばかり思っていた。その後、福岡の書店で偶然「交通趣味」(日本交通趣味協会発行)を見つけ、九州以外の地区では「一般式」がまだまだポピュラーであることを知った。

上: 敢えて「一般式」で印刷された近距離区間(51km未満/発売当日限り有効)の片道乗車券(門司乗車券管理センター)。@社線連絡乗車券 AJR他社関連乗車券 B鉄道からバスへの乗継乗車券 Cバスから鉄道への乗継乗車券 などが主なものだが、@については「金額式」稀に「地図式」もあり、Cバス券の場合は"鉄道乗り継ぎ"でない場合でもしばしば「一般式」が見られた。(「(自)福丸から高速道経由」など、極稀に"A型青地紋"の珍券も確認されている。)

上: 例外的に「金額式」以外の様式で印刷された近距離区間の片道乗車券(門司乗車券管理センター)。左はいわゆる"縁起きっぷ"の1つで、九州地区では他にも「福吉から大入ゆき」「鶴崎<-->亀川」など若干例が知られている。右は"観光記念きっぷ"の1種と考えられるが、この時期九州の「相互式」はかなり珍しく、初めて高千穂駅で購入したときは事前情報もなかったのでかなり驚いた。また、硬券の"廃止記念きっぷ"の中にも、一部「一般式」で作られたものがある(上記"漆生線"関係など)。

上: 近距離区間なのに、なぜか「一般式」で作製された臨時発売の片道乗車券(門司乗車券管理センター)。いずれの駅にも既に自動券売機が設置されていたので、混雑時の"手売り"用であることは間違いなく、左については"関門海峡の花火大会"における臨時券であることがはっきりしている。(他に「小倉ゆき」「戸畑ゆき」などもあり。) 右は最近筆者が入手したものだが、小森江―門司港の駅間距離(4.0km)を考えると、やはり門司港地区のイベントに伴って発行されたものである可能性が高い(小児専用券もあり)。イベントなどの混雑時の臨時発売(硬券)は、他にも佐世保線上有田駅(有田陶器市)、長崎本線バルーン佐賀駅(佐賀インターナショナルバルーンフェスタ)、筑豊本線奥洞海駅(若松競艇場)、日南線子供の国駅(こどものくに)など若干例があるが、大抵は「金額式」で、「一般式」はかなり珍しいと思われる。

左: (ム)記号が印刷された硬券による簡易委託乗車券(門司乗車券管理センター)。門司印刷場では、昭和40年代から連綴式の軟券(発駅名は多く"スタンプ"補充式)による簡易委託が行われており、運転関係の職員が便宜的に簡易出札業務を行っている駅ではB型硬券((ム)なし)が発売された例もあるが、いずれの場合もほとんど例外なく「金額式」が採用されていた。
 九州地区で左のような"(ム)硬券"が出現したのは、恐らく昭和60年代に入ってからのことで、特に民営化前は例が少なく、地域的な偏りも大きかった。("分鉄局"管内に多い。) また、以前は51km以上の中長距離は扱っていなかったと考えられるが、少なくとも平成初年頃には一部の駅で本州・北海道並に(ム)記号入りの中長距離片道券や常備往復券(硬券)が発売されたこともわかっている。なお、近距離区間についてはなぜか「一般式」(下記)のほうがポピュラーで、左のような「金額式」の(ム)硬券は比較的少ないように思われる(久大本線湯平駅・日豊本線上臼杵駅など)。

下: 「一般式」で印刷された簡易委託片道乗車券(門司乗車券管理センター)。民営化直前頃、筆者が当時既に簡易委託化されていた久大本線庄内駅を訪れた際、たまたま他の客が出札窓口で「一般式」のB型硬券を受け取ったのを見て、慌てて購入したもの(左下/中央)。かなりの驚きだったので、思い切って出札氏に「なぜこんな券があるのか」と尋ねたところ、「これら(「一般式」硬券)は復路用に"かえり"というゴム印を捺し、往復乗車券の一部として発行するもので、普段は軟券のほうを発売する」とのことであった。民営化後のものと違い、券面に「(管理駅)発行」と印刷されているため、九州における(ム)硬券の嚆矢とも考えられる*)。これ以降、「一般式」の(ム)硬券は分鉄局(JR九州大分支社)管内の簡易委託駅を中心に急速に広まった模様で、他にも日豊本線熊崎・浅海井・門川・川南(下)・日向新富、豊肥本線菅尾・牧口(豊後清川)・朝地・豊後荻(下)、久大本線北山田・豊後中川、鹿鉄局(JR九州鹿児島支社)管内の指宿枕崎線生見(右下)など多くの駅で発売例が見つかっている。(しかも、これらは必ずしも"復路用"ということではなく、軟券に代わって普通に発売されていたという。)



左: "吉塚駅発行"の「博多から小倉ゆき」片道乗車券(門司乗車券管理センター)。中距離券だから本来は「一般式」でも珍しくはないのだが、当時吉塚駅には既に100km対応の券売機があり、51〜100kmの口座(硬券)はなくなっていたので、参考までに採り上げた。例によって筆者が出札窓口から乗車券箱を覗き込んだときに偶然見つけたもので、吉塚駅周辺には福岡県庁などもあり、新幹線経由で小倉までの切符を希望する旅客が多かったためと思われる。(「吉塚->博多」間は別途自動券売機で購入?国鉄時代の話なので、「吉塚->博多-(幹)->小倉」という経路は"連続乗車券"の扱いとなり?、発券が面倒だったのだろうか。) "有効区間が他駅発"の乗車券類(常備式)は指定券や自由席特急券等ではしばしば見掛けるが、乗車券では比較的珍しいと思われる。民営化後、どういう扱いになったかは不明。

上: 最後まで生き残った九州地区の「地図式」片道乗車券(門司乗車券管理センター)。「地図式乗車券のすべて」(徳江茂/久田進一/小田規夫・日本交通趣味協会・1984)によると、九州地区の「地図式」乗車券は昭和35年頃から門鉄局を中心に拡大し、"2等制"時代に全盛期を迎えた後、昭和44年5月のモノクラス制施行を機に発売駅が減少に転じたという。それ以降は暫くの間、門鉄局管内に限られたが、昭和51年11月の賃改からはさらに縮小して、二日市・東郷・西小倉・熊本・都城・大分・久留米・南宮崎など一部の駅の51km以上の区間のみとなった。しかし、大きな駅では間もなく100km対応の券売機が導入されたため、昭和58年頃には5駅を残すのみとなり、昭和59年4月の賃改までに二日市の5種10口座と中間の1種2口座も廃止されて、西小倉・東郷・南宮崎の各1種ずつ4口座(上図)が痕跡的に残った。幸い筆者は東郷の2口座を窓口で、南宮崎の1口座を郵頼で購入することができたが、西小倉は昭和61年3月一杯で口座が廃止されてしまい、残念ながら入手することはできなかった。その後、東郷は民営化後もなんとか生き残ったが、やはり自動券売機の導入により南宮崎と共にいつしか廃止となっている。「地図式」は、路線が複雑に交差して「一般式」で揃えると口座数が非常に多くなってしまう筑豊地方などでは有効な手段だったが、図版は賃改毎に作り直す必要があり、西小倉駅ではその度に局から口座廃止を勧められたと聞く。なお、昭和55年4月の制度改正により51〜100kmまでの中距離区間が「発売当日限り有効」の扱いになってからは「地図式」も一時"B型赤地紋"に改められたが、特に筑豊地区などでは文字が小さ過ぎて見にくいためか昭和56年4月にかけて徐々にA型に戻ったという。そのため、昭和55年頃のB型「地図式」はかなり高値で取り引きされている模様。


注)
* 「国鉄きっぷ全ガイド」(近藤喜代太郎・日本交通公社・1987)には、これより早く昭和60年3月に筑肥線浜崎駅で発行された(ム)硬券(福岡市交地下鉄連絡乗車券)が掲載されている。これも"珍品"で、詳しくは(特別企画)【九州の連絡乗車券に関する考察】を参照のこと。



4.九州の常備式指定券類の話題

 国鉄では、昭和50年11月*)の券式改正で指定券類の有効区間の書式が「乗車駅 ** 下車駅 **」から「** |> **」(実際の矢印は▼様の黒塗り三角)に変更された。これを機に指定券類のD型化も加速し、特に門司印刷場ではこれ以降、A型の指定券類は全廃されたと考えられる。加えて、この頃から特急・急行が停車する九州の主要駅にマルス端末が普及したせいか、"常備式"指定券類(硬券)の需要が急激に減少してしまい、中小駅を中心に"準常備式"の券ばかりが目立つようになった。本州・北海道などその他の地区では、硬券の廃止時まで依然として常備式の指定券類をよく見掛けたのとは対照的である。ここでは、比較的珍しいと思われる九州のD型常備式指定券類(昭和51年以降)について、筆者の"苦労話"を交え簡単に紹介したいと思う。

上: 有効区間が"三角矢印式"に変更された単独の常備式指定席特急券(門司印刷場)。右は新幹線博多開業(昭和50年3月)後に設定された半額割引の"乗継特急券"で、こちらは着駅が博多または小倉に限定されるため比較的常備式も多いが、左の通常券の方は非常に数が少ない。九州地区では、臼杵・津久見クラスの駅でも昭和57年くらいまでの間に次々とマルス端末機が導入されてゆき、それ以下の駅においては"準常備式"で十分間に合う程度の需要しかなかったのが一因と考えられる。なお、この後「九州内相互間」を発着する特急列車については昭和57年4月より新たに割安の「B特急料金」が設定されたため、大半の特急券が"B特急券"という名称に変更された。厳密には、この時期「いそかぜ」(博多―米子間)など本州に直通する特急列車(東京・大阪方面へ向かう寝台特急を除く)もあるにはあったが、マルス端末がない中小駅の需要を考えると"A特急券用"の硬券を設備した駅はほとんどなかったものと思われる。


上: 民営化後に発行された単独の常備式指定席B特急券(門司乗車券管理センター)。久大本線天ヶ瀬駅(業務委託駅)には硬券が廃止になるぎりぎり(平成7年6月一杯)まで、奇跡的に常備式の指定席特急券が多数残っていて、筆者は口座廃止の4ヶ月前になんとか"B特"と"継B特"は購入したが、後日オークションで"忙B特"(上図左下)もあったことを知り、やむを得ずかなり高額で入手した。"忙B特"があったならば多分"継忙B特"(上図右下:佐敷駅発行のもの)もあったのではないかと思う。(天ヶ瀬駅訪問時の様子は(特別エッセイ)【切符蒐集を考える】を参照のこと。) 
 上記のように、九州地区では主要駅に"みどりの窓口"の設置が進んだ結果、昭和61年11月頃には"マルス端末"のない特急停車駅はわずか28駅(瀬高・荒尾・長洲・上熊本・宇土・日奈久・佐敷・串木野・湯之元・伊集院・肥前山口・多良・湯江・浦上・宇島・柳ヶ浦・杵築・亀川・鶴崎・幸崎・南延岡・高鍋・佐土原・南宮崎・西都城・霧島神宮・国分・隼人)だけになった。これらの駅には"準常備式"以上の硬券があったのは確実だが、さすがに"常備式"は少なく、その後に特急が停まるようになった駅を含めても、筆者は5駅(佐敷・湯之元・鶴崎・天ヶ瀬・新飯塚)ほどしか実例を確認していない。また、常備式の中でも"B特・忙B特"はさらに少なかったと思われる。一方、"準常備式"のほうは、小駅も含めてほとんど全ての有人駅(マルス端末のない直営駅や業務委託駅)に設備されていた可能性が高い。

上: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の常備式特急券・B寝台券及び急行券・B寝台券(門司印刷場/門司乗車券管理センター)。一葉式の"特急券・B寝台券"は、単独の常備指定席特急券に比べれば実例が多く、昭和末期の時点においても串木野・伊集院・肥前山口・新飯塚などの他、ブルートレインが停まらない日奈久・佐敷・湯之元・大町・鶴崎などの中小駅にも設備されていたことが判明している。筆者は確認していないが、他にも結構あったのではなかろうか。一方、一葉式の"急行券・B寝台券"のほうは、昭和51年以降、寝台車を連結した夜行急行の激減に伴って"常備式"はかなり少なくなってしまい、晩年は「かいもん」(門司港―西鹿児島間/鹿児島本線経由)と「日南」(門司港―西鹿児島間/日豊本線経由)の2列車用に極わずかな設備が見られただけだった。右は廃止になった妻線妻駅発行のもので、急行停車駅以外ではかなりレアなものと思う。(「マル公」のゴム印にも注意。下記5.(3)参照。) ほとんどの駅では"準常備式"または軟券の出札補充券・料金専用補充券等で対応したと考えられる。また、門司港―長崎間及びその近隣の極一部の駅には、昭和51年以降も夜行普通列車「ながさき」(昭和59年2月廃止)用の常備式"B寝台券"(三角矢印式の単独券)があった。

上: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の準常備式特急券・A寝台券及び常備式特急券・A寝台券(個室)(門司印刷場)。A寝台券についてはB寝台券に比べるとかなり需要が少ないため、比較的大きな駅でも準常備式(左上)で十分対応できたと考えられる。常備式の"特急券・A寝台券"(三角矢印式)は、九州では極めて実例が乏しく、たまにオークション等で右上のような"見本券"は目にするものの、実際に設備した駅はほとんどなかったと思われる。(筆者が確認できたのは日豊本線中津・佐伯駅発行の2例のみ。)


左: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の常備式指定席急行券・グリーン券(門司印刷場)。昭和51年以降に発行された九州地区の指定席グリーン常備券(特急券または急行券と一葉化されたもののみ)は、単独の常備指定席特急券よりさらに実例が乏しく、B特急券と一葉化された新幹線乗継券(継B特グ)を除いては、かなり大きな駅でもほとんど"準常備式"で対応していたものと思われる。(筆者は佐世保線有田駅くらいしか実例を知らない。) 急行列車については、昭和58年以前(年月不詳)に「由布」(博多―別府間)「火の山」(熊本―別府間)「えびの」(熊本―宮崎間)「くまがわ」(熊本―人吉間)などに連結されていたグリーン車が利用客減を理由に一斉に廃止されてしまったため、三角矢印式の指定席"急行券・グリーン券"は発売期間が極めて短く、しかもその大半は"準常備式"で、左のような常備式はかなり珍しいものと思われる。


左: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の常備式新幹線指定席特急券(門司印刷場)。昭和51年以降に九州地区で発行された新幹線指定席特急券(硬券)のほとんどは"準常備式"とみられ、やはり"常備式"の券は極めて数が少ない。そもそも常備券を置くほどの需要がある駅では、上記の通り早々にマルス端末が導入されている場合が多く、左の中津の他は肥前山口・肥前鹿島・新飯塚くらいしか筆者は実例を目にしたことがない。但し、新幹線の特急券は当時から"使用済みの回収"がかなり徹底していたため、実際は「あまり市場に出て来ないというだけ」の可能性もある。
 余談ながら、指定券類(硬券)の中でもこの新幹線指定席特急券だけはデザインがやや特異で、座席指定事項は全て裏面に記入するようになっている("準常備式"でも同じ)。これは新幹線岡山開業時(昭和47年3月)に始まった"総合料金制度"の一環で、「ひかり」「こだま」(当時)を改札口を出ずに乗り継ぐ場合に"通しの特急料金"が適用される特例に基づき、2列車の座席指定を記入できるようスペースを広くとる必要があったためだが、それでも駅名欄などはかなり狭小で一見して無理がある。("準常備式"はもっと狭い。広島印刷場など他の地区では、稀にA型の券まであったというから驚く。) 実際、乗り継ぎをしないケースでは、表面を見ればわかるので"裏面の乗下車駅名はわざわざ記入しなくてもよい"決まりになっていたようだ。

上: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の常備式急行券・指定席券(門司印刷場/門司乗車券管理センター)。左は券式改正後間もなく発行されたもので、逆に右は民営化後最晩年の例。前記のように、"座席指定券"は昭和44年5月から"指定席券"に名称変更された後、昭和45年5月頃からは原則として急行券とセットで発売されるようになった。筆者の知る限り、新券式に移行後、九州地区で単独の"指定席券"(D型常備式・準常備式)が発行された形跡はない。また、昭和50年11月からは指定券の"閑散期割引制度"が始まり、この際九州は北海道などと共に「通年割引」の特例扱いとなったため、九州地区で発行された急行券・指定席券(硬券)は緑地紋ではなく、長い間"橙地紋"(淡褐色)のものばかりだった。この割引制度は民営化後も大筋で継承されているはずだが、右の券は明らかに"緑地紋"なので、いつしか"急座"の橙地紋のほうは廃止された?と考えられる。ちなみに、昭和59年4月からは"繁忙期割増制度"(盆と年末・正月)も始まり、指定席特急券なども含めて"忙繁期"用は同じ"橙地紋"が採用されていた。なお、九州地区の"急座"常備券の発行状況は、やはりその他の指定券類と同じようなものだったが、昭和55年頃までは指定席車両を連結する昼行急行列車がまだ結構走っていたので、指定席特急券よりは若干実例が多いような気はする。しかし、晩年は「かいもん」「日南」の2列車のみとなったため常備式はかなりレアで、たまにオークションで右のような列車名常備の券が出品されると、驚くような高値が付くこともある。


※ その後、筆者は「交通趣味」誌のビューオークションで左(:モノクロ画像を基に筆者が作製した模擬券)のような珍品を見つけました。今まで九州地区の単独"指定席券"(D型硬券)は全く見たことがなかったので、かなり意外な発見でした。しかも、料金が"通常期"と同額(500円)であるため"緑地紋"と考えざるを得ず、この点でも九州地区(昭和51年以降)では極めて珍しい例と言えそうです。(本州―九州間を運転する急行列車用と考えられる。) 上部に「発行換」のゴム印が捺してあることから、"発行替え"用にわざわざ設備されたものなのでしょうか? 席番だけの変更など"乗車変更"に当たらないケースに発行される"発行替え"専用の常備指定席券は、本州その他の地区では若干例が知られていますが、その場合には「発行換(替)」の文字を印刷済みでもよさそうなもので、また、この時期熊本方面で指定席車両が連結された普通列車が運転された形跡もないことから、わざわざこのような単独の指定席券を常備した意図がわかりません。

 その後、"下総の風"様からメールを頂き、民営化後に発行された常備式急行券・指定席券(上: 門司乗車券管理センター調製)の貴重な画像を送って頂きました。久大本線由布院駅及び豊肥本線豊後竹田駅発行の2枚(昭和63年)で、「かいもん」「日南」関係以外のJR[九]常備券(しかも橙地紋)はかなりレアなものと思われます。(由布院駅には"継急座"もあったとのことです。) 国鉄時代のものに比べると列車名記入のスペースがかなり小さく、豊後竹田駅では作製したゴム印が所定欄に収まらなくて、やむを得ず券下の空白に捺していたことがわかります。

◆"下総の風"様、今回は貴重な情報や画像、また当HPに対する丁重なご感想を頂き、本当にありがとうございました。この場をお借りして、改めて御礼申し上げます。


上: 有効区間が"三角矢印式"に変更された後の常備式立席特急券(門司印刷場/門司乗車券管理センター)。"立席特急券"は意外と歴史が古く、自由席車両が連結されていない特急を対象に昭和40年頃から自特と同額で出現した後、ブルートレインなどが走る全国各地に広がったが、九州では割合に取り扱い列車が多かったにもかかわらず認知度は低かったようで、"ヒルネ"を知らずに窓口で乗車を勧められてびっくりする旅客もいたという。したがって、この券種だけは全国的に見ても九州地区の発売例は多く、しかも不思議なことにむしろ"常備式"のほうをよく見掛けて、なぜか"準常備式"は少ない印象を受ける。(発売枚数を管理しやすいためかもしれないが、大抵は料金別に複数種の常備券を設備した駅が多かった。) 立特はあらかじめ発売枚数が決められているので"指定券に準ずる扱い"となっており、通常は"みどりの窓口"で発売されることが多く、原則として乗車駅以外では購入できない。(発売方法については紆余曲折あり、しばしば問題になった。) また、"上り"列車では本来"指特"が建前だったが、実際には上りでもちゃんと"立特"が発売されていて、事情を知らない旅客が前もって指特を購入して損をするといった不合理な事態も生じたため、後には時刻表の巻末に案内が載るようになった。なお、立特には必ず「(この特急券では)着席できません。」と印刷されているものの、実際には空席があれば着席することは認められており、長い間「旅客と出札職員の間で同じやり取り」(座ってもいいのかということ)が行われてきたであろうことを思うと、双方にとって"買いにくく売りにくい"券種ではなかったかと筆者は思う。
 券式については、等級制時代に本州でA型が見られる他はほとんどすべてD型緑地紋で、九州地区の場合は昭和51年以降、主要駅にマルス端末が導入されて設備数が漸減したとはいえ、大きな駅では窓口によって暫く硬券の口座を残していた例も多く、門司・博多・久留米・大牟田・大分などで昭和58年以降の発売例がある。(末期まで西口で通年発売していた大牟田を除くと臨時用か?) しかし、昭和61年以降になるとさすがに硬券は激減して、大牟田・串木野(右)・肥前山口(いずれも常備式)など数駅だけになってしまい、この3駅については民営化後も生き残ったことがわかっている。なお、筆者が知る限り、硬券の指定券類の中でも「日付だけを記入すればよい」いわゆる"完全常備券"というのは九州ではもともと非常に数が少ないが、立特だけはその性格上有効区間や列車名印刷のものが多く、極稀には本当の完全常備券もあった(左)。


※ その後の調査で、昭和61年以降、日豊本線中津駅にも常備式立席特急券(左)があったことがわかりました。新幹線乗継用の半額券で、少なくとも民営化の頃までは設備されていたようですが、一見して列車名を記入するスペースが異様に狭く、強い違和感を感じます。これを裏付けるように、某即売誌には「列車指定のない立席特急券はこの券だけです。中津駅だけで発売したもの。」と書かれていますが、本当でしょうか? 当時、日豊本線には「富士」「彗星」の2列車が走っていて、中津駅には上下4便とも停車(旅客扱い)しましたが、「彗星」については下りが大分―都城間、上りが都城―佐伯間のみで「ヒルネ」扱いを行っており、確かに"継B立特"の該当列車は上りの「富士」しかありません。しかし、指定券類及びそれに準じるもので、「列車名を記入しないことを前提に常備券を作製する」ことがあり得るのかは、ちょっと疑問に思います。(それなら最初から列車名を印刷しておけばよいのではないでしょうか。少しでも手間を惜しむのなら着駅の「小倉」も"印刷済み"でよさそうです。) また、「富士」上りでは小倉以外に門司、下りでは宇佐―宮崎間の8駅も発売対象になるはずですが、同じように列車名を省略したB立特が発売されていたのか興味をそそられるところです。


※ さらにその後、上記の券より数年前日付(昭和59年11月)の同じ中津駅発行"継B立特"を見つけましたが、なんとこちらのほうには狭い列車名スペースにちゃんと「富士」が印刷されており、着駅(小倉)も常備式でした(左)。なぜこの後、わざわざ「富士」「小倉」を"記入扱い"にしたのか、ちょっと気になるところです。このように立特などの列車名や上下車駅(及び発車時刻)欄を印刷するかどうかは、ほぼ現場(駅出札口)の判断に委ねられていたと考えられますが、九州の主要各駅ではこの例(中津駅)以外にもなぜか極短期間で頻繁にパターン変更されているケースをしばしば見かけます。

※ さらにその後、ネットオークションで平成元年2月日付の中津駅発行"[九]B立特"及び"[九]継B立特"を見つけましたが、[九]B立特は"発駅「中津」常備"で列車名空欄、[九]継B立特は"発着駅「中津」「小倉」常備"で列車名空欄というものでした。([九]B立特のほうには列車名用のスペースが若干ありますが、[九]継B立特は[九]マークのせいで上記2枚の券よりさらにスペースが狭くなっています。) いずれにしても、乗車日欄・発車時刻欄はちゃんと記入されているのに両方とも"列車名がない"点は確かに不審です。やはり、中津駅では列車指定をせずに立特を発売する慣例になっていたのでしょうか.....。


[肥前山口駅の思い出]

 肥前山口駅は長崎本線と佐世保線が分岐する鉄道の要衝にあり、以前はこの駅で寝台特急「さくら」(長崎行・佐世保行)の分離・結合が行われていたこともあり、佐賀県内では佐賀、鳥栖についで重要な位置を占めてきた。駅舎側の1番線と2つの島式ホーム(5番線まで)を有し、「さくら」以外のすべての特急・急行も停車していたが、意外にも乗降客はそれほどでもなく(昭和56年度乗車客数836人)、昭和末期の時点でもマルス端末が導入されていなかったばかりか、自動券売機すらなく、近距離の片乗や入場券を含めたほとんど全ての券種を硬券で設備していた。
 そんな訳で、筆者は民営化前後の時期、この地方へ出掛けたときは、用もないのにわざわざ肥前山口駅で下車して、弁当を買うついでに"出札窓口を覗き込む"のを楽しみにしていた。 大きな木製の乗車券箱には何段にも渡ってぎっしりと硬券が並べられ、枠下に着駅名や券種の略称などが暗号のように書き連ねてあり、これを見るだけでもわくわくしたものだった。このときはまさか、この後10年程で硬券がなくなってしまうとは夢にも思わず、丁重にお願いして「せめて乗車券箱の写真を撮らせてもらえばよかった」と今では後悔している。ただ、乗車券類は法律で"有価証券の扱い"となっており、「金庫の中身を見せて下さい」と言っているようなものなので、この当時は出札口の写真を撮ることすら筆者にはためらわれた。しかし、近頃は堂々と事務室内に入れてもらってたくさんの写真や情報を入手される方もいるようで、本当に最近の若い鉄道マニアの行動力には頭が下がる。


上: 肥前山口駅常備の乗車券類(硬券)の極一部(門司乗車券管理センター)。九州では、このクラスの駅で小児専用の中距離券(51〜100kmまで)や特急券、入場券などを設備することは比較的珍しく、いかに多くの常備券口座があったかがわかる。右下は自動車線への乗継券で、他に島鉄連絡券などもあったような気はするが、はっきりとは覚えていない。この他、50kmまでの近距離片乗はすべて「金額式」(B型赤地紋)、また常備式中距離片乗(B型赤地紋「一般式」)や常備式長距離片乗(A型青地紋「一般式」)はもちろんのこと、常備式往復券(A型青地紋)やB自特・幹自特(A型赤地紋)、常備式幹指特(D型緑地紋)、常備式特Bネ・立特(D型緑地紋)など、ほとんど全ての券種に渡ってたくさんの硬券が揃っていた。


左: 肥前山口駅に設備されていた常備連綴式の乗車券・B自由席特急券(門司乗車券管理センター)。肥前山口駅には「博多ゆき」の他、「長崎ゆき」ともう1種(計3種)あったと記憶している。この種の連綴券は昭和50年代を中心に全国的に"流行"したが、九州地区の場合は特急停車駅の軟券化が進んだこともあり、昭和57年以降在来線では急激に減少してしまい、昭和60年以降は他に肥前鹿島など極わずかな駅にしか見られなくなった。


左: (参考)鹿児島本線二日市駅に設備されていた常備連綴式の乗車券・急行券(門司印刷場)。佐世保線に最後まで残った急行「弓張」(博多―佐世保間)用の常備券か。昭和55年10月のダイヤ改正を経て、もうこの時期には急行列車がかなり少なくなっており、このような昭和56年以降発行の青地紋(100km超)の連綴券にはハッとさせられる。この後、九州では昭和57年11月改正で「弓張」3往復も含めて、さらに「出島」(博多―長崎間)・「ゆのか」(博多・小倉―大分間)なども一斉に廃止されたため、この種の"急行列車用連綴券"はほぼ消滅したと考えられる。


左・下: 肥前山口駅に設備されていた常備式立席特急券(門司乗車券管理センター)。筆者が訪れた頃は「さくら」専用(列車名印刷)に4口座あり、すべて常備式で、そのうち長崎と博多2種(通常券と新幹線乗継券)は"完全常備券"という豪華なものであった。(左下:昭和60年10月に窓口で購入したときは、たまたま「博多ゆき」が売り切れており、「長崎ゆき」をゴム印で修正した券を渡されてちょっとガッカリ.....。) これらの立特は民営化後も暫くの間は発売された模様だが、具体的にいつ頃まであったのか、[九]の新券は出たのか、などは把握していない。

下: 肥前山口駅に設備されていた常備式特急券・B寝台券(門司乗車券管理センター)。肥前山口駅に何度も足を運んでいるうちに、何とかして"特Bネ"のD型常備券を手に入れたいと思うようになったが、こればかりは額面(\9,000)が大き過ぎて趣味用においそれと購入するわけにはいかず、"ついでの機会"をうかがっていたところ昭和61年になって上京する用事ができたため、わざわざ指定券だけを買いに肥前山口駅を訪れた。"下り"の特急列車から降り立ったばかりだったので、駅員氏が覚えていれば「なぜわざわざ当駅で買うのか」と不審に思ったに違いないが、恐る恐る「博多から東京までの"みずほ"の寝台券をお願いしたい」と申し出たら、「乗車券のほうは要らないの?」と言われただけで、あっさりと購入することができた。場所柄、当駅で寝台券を購入する旅客は大抵「さくら」を利用するものと思われるが、ちゃんと「みずほ」「あさかぜ」(多分「はやぶさ」も)のゴム印が用意されており、あとは乗車日時と座番数字を手書きするだけで、あっという間に券は完成した(左)。しかし、そのまますぐに交付してくれるものと思っていたら、指定内容を丁寧に"赤鉛筆"でチェックしてゆく出札氏.....。できるだけ綺麗な状態で保存しておきたかった筆者にとってはハラハラドキドキものだった。その後、同じ年の11月にも、今度は「あさかぜ」利用で同じ特Bネを購入してみた(右)が、このときは出札員が別の方だったのか、"点々"は付けられずにホッとしました。



[新飯塚駅の思い出]

 筑豊本線新飯塚駅も筆者の好きな駅の1つで、昭和末期頃はさして用もないのにしばしば下車しては暫く駅の様子を眺めたりしていた。後藤寺線の分岐駅で、周囲には飯塚市の官公庁や商業施設も多く、昭和56年度の乗車客数は4,394人にのぼり、市の代表駅である隣の飯塚駅(同2,448人)よりかなり乗降数が多かったにもかかわらず、なぜか"みどりの窓口"の設置(昭和62年の後半から63年の前半頃)が遅れたこともあり、筆者がよく訪れた頃はまだ指定券類を含む料金券(硬券)がたくさん残っていた。(但し、昭和52年6月に自動券売機が導入されたため、既に近距離片道券と入場券はなし。) 駅に降りると例によって出札窓口を"死角"から覗いて硬券の設備状況を確認するのが楽しみだったが、"出札氏に教えてもらう"ほどの度胸はなかったため、結局口座の全貌を知ることはできず、今考えると「いろいろ質問して可能なら購入させてもらえばよかった」と思う。中長距離片道券(B型赤地紋及びA型青地紋)はかなりあったが、残念ながら内容のほうは覚えていない。料金券ではA型常備式の"B自特・幹自特"(数種ずつ)の他、珍しいところではD型常備式"B特"(指定席)が150kmまでと200kmまでの2種、D型常備式"幹指特"が乗車駅印刷済みで小倉4種と博多3種、この他D型常備式"特Bネ"(左)が1種あり、もちろん準常備式もたくさん揃っていた。
 民営化も差し迫った昭和62年の初め頃、再び上京する用事ができたため、どうせならまた"硬券を手元に残そう"と思い、わざわざ新飯塚駅を訪れた。まだマルス端末がないことは事前に確認していたものの、駅によっては「硬券は臨時(予備)用で普段は料金専用補充券等で対応する」といった話も聞いていたので、多分に"一か八か"という感じだった(聞けばいいいのに(笑))が、出札氏が横の乗車券箱から真新しいD型硬券を引き抜いて、とりあえずは一安心。電話で座席の指定を受けた後、有効区間と列車名のゴム印を捺し、丁寧にボールペンで日付と座番数字を記入し始める出札氏.....。ところが「あっ」という間もなく、なんと1字目から間違えてしまい、内心ガッカリ........。切符マニアなら"この気持ちはよくおわかり"ですネ(笑)。


注)
* 「国鉄きっぷ全ガイド」(近藤喜代太郎・日本交通公社・1987)の記述に拠る。「国鉄乗車券類大事典」(近藤喜代太郎/池田和政・JTB・2004)によると、"寝台券"については「昭和49年10月から(公102)」(P.205)、"新幹線特急券"については「昭和50年2月から(公352)」(P.311)となっているが、筆者は他の印刷場の券も含めて昭和49年発行のものはまだ一度も見たことがない。また、昭和50年発行の券も非常に数は少ないが実例はあるので、概ね「昭和50年後半から」という線は妥当に思える。実際に九州地区で"三角矢印式"の指定券類を頻繁に見掛けるようになるのは凡そ昭和51年頃からである。



5.あまり売れそうもない切符の話題

 長らく切符を集めていると、「なんだこりゃ?」「こんなもの設備しといて意味あるのか?」「誰が買うんだろうか?」などの不思議に出くわすことが少なくない。恐らく、入札誌やネットオークション上で同じような経験や感想を持ったことがある収集家は多いのではないだろうか? ここでは、筆者がとりあえず気が付いた不思議な?乗車券類(主に国鉄・JR関係)を独断と偏見を交えて紹介したいと思う。前の各章も含めて筆者はこういう話題には目がないので、もし「それにはこういう意図(背景)がある」とか「他にもこんなものがある」などのご指摘や情報提供を頂ければ幸いである。

(1) ロープウェイやケーブルカーの入場券

 筆者がいつもお世話になっている関西乗車券研究会の加田様によると、昔(戦前の話?)は「鉄道の"有人駅"にはかならず入場券を設備すべし」という"お上"の指導があったという。そのためかどうかわからないが、国鉄・私鉄を問わず全く必要性が考えられないような山間の極小駅でも「駅員がいれば必ず入場券が置かれた」時代があった。(結局そうした券は滅多に売れないので、今では非常に高価なプレミアが付いている。) "索道"も広義(特に法律上)では"鉄道"に属するのかもしれないが、昔は旅客営業を行うロープウェイなどの駅にも律儀に入場券が設備された例は多い。しかし、ロープウェイの多くは"観光客用"もしくは"登山客用"であって、しかも極一部を除けば閉塞した区間両端の2駅しか持たないため、そもそも送迎や構内通過といった入場券が本来想定している用途が考えにくいという背景があり、わざわざ設備してもほとんど売れないであろうことは誰の目にも明らかである。平成26年10月現在、硬・軟にかかわらずロープウェイで入場券を設備しているのは埼玉県の"宝登山ロープウェイ"(宝登山麓駅及び宝登山頂駅/B型硬券)だけのようだが、平成18年5月から運休となり結局廃止になった"三峰山ロープウェイ"(大輪駅及び三峰山頂駅)にも秩父鉄道様式のB型硬券があった。(ちなみに、大輪駅には"定期券"の設備まであったという。本当だろうか?) 当然、"使用目的"で買う人はいないと思われるが、昔に比べると切符マニアが増えているので、そこそこは売れているらしい。その他古くは、少なくとも"榛名山ロープウェイ"(榛名富士山頂駅/B型硬券)などでも入場券が売られていたのは間違いなく、加えて「中小私鉄入場券図鑑」(関西乗車券研究会編)には"富士急行索道線"(現・天上山公園カチカチ山ロープウェイ)・河口湖畔駅のB型硬券(昭和44年発行)や"筑波山鋼索鉄道"(筑波山ケーブルカー)・宮脇駅の軟券(これは今も購入可能?)が掲載されている。ひょっとするとその他のロープウェイやケーブルカー(特に硬券の乗車券を扱ったことがあるところ)でも、昔はちゃんと入場券が置かれていたのではなかろうか。
 余談だが、先日某ネットオークションに突然"九州産業交通(現・九州産交)・阿蘇山ロープウェイ"・阿蘇山上駅(現・火口西駅)発行の「阿蘇山上から(宮地経由)別府ゆき」"D型補充式"2等国鉄連絡券が出品され、なんと15,000円以上もの高値が付いた。(昭和38年発行の硬券で、現・阿蘇山西駅―国鉄宮地駅間はバス連絡か。) 昔は、国鉄と"連絡運輸契約"を結んでいたロープウェイまであったのだ。

※ その後、「連絡運輸」にもお詳しいekinenpyou様からメールを頂戴し、上記"九州産交のロープウェイ->国鉄連絡券"は「宮地駅接続ではなく阿蘇(旧・坊中)駅接続であったはず(阿蘇山西駅―国鉄阿蘇駅間がバス連絡)」というご指摘を頂きました。(「連絡運輸」ではあらかじめ接続駅が決められているとのことです。) 乗車券の"経由"欄には"乗換駅"を記入するもの、という筆者の思い込みがありました。ekinenpyou様にはこの場をお借りしまして、改めて深く御礼申し上げます。


左: 「鉄道きっぷ博物館」(築島裕・昭和55年)や「鉄道入場券図鑑」(日本交通趣味協会・昭和56年)などに掲載されている榛名山ロープウェイ・榛名富士山頂駅の入場券(模擬券)。築島書の日付は"35.-7.12"(券番"0001")、図鑑のほうは"52.-5.29."で、少なくとも昭和52年頃まではあった模様。(当然のことながら現在は廃止されている。起点の榛名高原駅のほうは設備自体不明。) 築島書を引用すると、「開業後何年か経っていたらしいが、入場券を下さいと頼んだところ、いらないからそのまま入場していいと言われたが、記念にするから是非と言ったら、奥の戸棚の中から出して来て売ってくれたものである。」とある。ちなみに、築島書の同じページには小田急の「新宿<-->渋谷 下北沢経由」という変なB型「相互式」2等常備券(券番"0001")も掲載されており、強く日焼けした裏面には売上計算時のチェック線が10本近くも入っていて、やはり1年半もの間全く売れていなかったという。(途中下車もせず、わざわざ新宿->下北沢->渋谷と遠回りに乗り換えまでして小田急を利用する客などいるはずもなく、ほとんど"会社の意地"かもしれないが、全くムダなことをしたものである...。)


(2) 1駅区間の常備式1等乗車券、近距離区間の常備式異級乗車券

 "等級制"時代の古い時刻表の巻末をめくってみると、当時は"運賃表"の「対キロ区割り」が現在よりかなり細かいことに気付く。例えば、今の普通運賃制度では2,001〜2,040営業キロ(幹線)が同額区間になっているのに対して、昭和36年頃(2等級制施行時)は2,001〜2,007キロ程が同額で、設定幅が1/5以下になっている。逆に言うと、当時はそれだけ「同一運賃の着駅が少なかった」わけで、乗車券を"常備式"で揃えようとすると、今よりもたくさんの口座が必要ということになる。これに加えて、"2等制"時代ならば2倍、"3等制"時代ならば3倍の"別運賃体系"があったのだから、かなり大きな駅でも"1ヶ月に数枚売れる"程度の着駅群をすべて"常備式"で揃えることは非常に困難だったに違いない*)。おまけに、"異級乗車"(一部乗車区間を"別等"利用すること)の問題もある。"異級乗車券"を"常備式"で用意しておくことは、あまりにも乗車パターンが多過ぎて、"連絡船"絡みなどの特殊なものを除けば事実上不可能にも思える。優等車を利用する旅客に対しては、最初から優等車両設備の"利用料金"を別個に徴収するシステム(今の"グリーン料金"のようなもの)にしておけば、こんな面倒なことにならずに済んだはずだが、等級運賃制は明治以来の長い歴史と伝統があり、そう簡単に制度改正に踏み切ることはできなかったのであろう。
 当然のことながら、優等乗車券の需要は"最下等"に比べれば、あまり多くはなかったと考えられる。当時、1等運賃は2等の2倍(3等の4倍)、2等運賃は3等の2倍だったが、乗車券の売れ行きは"1/2"どころか恐らくは"数十分の1以下"ではなかったろうか。したがって、"優等"の乗車券を常備式で設備しておくことは甚だ無駄が多く、実際には大きな駅でも比較的需要の多い「都道府県の代表クラスの着駅(東京・大阪・京都・名古屋...ゆき)」を揃えておくのがやっとであったと想像される。まして、小さな駅の出札口の場合や中小の着駅群に対しては、ほとんど全てを"補充券"(D型)で対応せざるを得なかったであろう。ところが、乗車券専門誌などを見ると、実際には一部の駅にかなり意外な1等常備券や異級乗車券が存在したことがわかっている。それらの珍券はたまにオークションに出品されることもあるが、稀少性ゆえにかなりの高額で取引されている模様だ。


左: たった1駅区間のために1等常備券(B型緑地紋)を作った例(東京印刷場)。"等級運賃制"の唯一の長所は、短距離区間で優等設備(座席)を比較的安価に利用できることであろう。しかし、たった1駅区間(数分間?)のために2倍の運賃を払う人はほとんどいないと思われるので、わざわざ常備券を設備しておく必要があるのか、かなり疑問に思う。もっとも、このような"超短距離区間の1等常備券"の例はこの他にも「東京<-->新橋」「東京<-->品川」など東京近郊ではしばしば見掛けるため、思ったよりは売れていたのかもしれない。(横須賀には在日米海軍の基地があって外国人などが多いためであろうか、特に横浜周辺では1等常備券の実例が多い(大船・藤沢・茅ヶ崎・鎌倉・横須賀・久里浜など)。"辻阪書"には「田浦<-->横須賀」の1駅区間常備券が掲載されている。) でも、"1駅単位"に全ての着駅を揃えることは到底できないはずなので、一体どういう基準で常備式にする着駅が選択されたのか、常備式は全部でどれくらいの口座数があったのか、非常に興味深い。


左: 門司駅にも設備されていた下関までのA型「一般式」1等片道乗車券。さすがに地方では1駅区間の1等常備券はかなり稀だったと思われるが、他にも「南宮崎から宮崎ゆき」(A型)、中軽井沢駅(B型「両矢式」)など若干例が知られている。


左: 近距離区間の異級常備券の例(東京印刷場)。当時、山手線などには1等車が連結されていなかったため、東海道線各駅などから1等に乗車して品川以北を2等とする異級常備券はしばしば目にする。1等券に準じた英文入り緑地紋の券で、末期のものは英文が省略されているものの、B型(ほとんど全て「相互式」)は比較的稀少という。新券がいつから出たのかわからないが、"0174"という数字(券番)はひどく小さいわけではないので、やはりそこそこは売れていたと考えざるを得ない。しかし、「日暮里ゆき」があるならば、上野は別格にしても鶯谷・御徒町・秋葉原・神田などの着駅もありそうなもので、一体どれだけの口座数を抱えていたのかとちょっと不思議に思う。(その後の調査で、実際に少なくとも「横浜<-->鶯谷」「横浜<-->御徒町」「横浜<-->有楽町」「横浜<-->新橋」「横浜<-->田町」「横浜<-->池袋」「横浜<-->高田馬場」などの異級常備券が存在したことが判明。)
 極めつけは、「鉄道きっぷ大研究」(辻阪昭浩・昭和54年)に掲載されている「桜木町<-->保土ヶ谷」(桜木町駅発行)の異級常備券(昭和39年発行)だろうか。桜木町->横浜の1駅間を2等乗車した後、横浜->保土ヶ谷のたった1駅区間を1等乗車するという変わったもので、当時京浜東北線には2等列車しかなかったから仕方ないとはいえ、そこまでして1等に乗りたい人がいるのか、と首をかしげたくなる。この券は最近偶然、ネットオークションにも出品されて高値で落札された(昭和44年発行)が、辻阪書掲載の券とは運賃が違っていることから"賃改後に新券が出た"ことは明らかで、意外にも口座を維持する程度には売れていた模様だ。


左: 社線連絡用異級常備券の例(東京印刷場)。当時、私鉄区間には1等車を連結していないことが多かったため、このような東京近郊の異級連絡券は比較的需要があったと思われる。しかし、やはり常備式は少なく、大抵の場合は補充式・準常備式で対応したのではなかろうか。ちなみに、私鉄発行の1等券は甚だ実例(伊豆箱根鉄道など)が乏しく、「JPRてつどう」の緑地紋はかなり珍しいので、たまにオークションに出るとかなりの高値が付いている模様。


注)
* 近藤喜代太郎氏の著書によると、「国鉄時代、乗車券類の口座新設や廃止は"組合との話し合い"によって決められた」という。当時は"現場"(国労=国鉄労働組合など)の力が非常に強かったので、ひょっとすると「あまり売れないとわかっていても乗車券類は可能な限り発券の手間が少ない常備式で設備しておけ」というような"雰囲気"があったのかもしれない。


(3) 常備式の職員家族割引乗車券

 "職割券"は、退職者を含む非公務の鉄道職員とその家族が国鉄(JR)の鉄道・航路・自動車線を低額で利用するために発行された"乗車証"の1種で、券面に「職」という記号が印刷または捺印された乗車券類をいう。(公務の場合(無賃)は「公」になるらしいが、新幹線特急券のA型"代用証"を除いて硬券はあまり見たことがない。) @"職員家族旅客運賃料金割引証"と引き換えに発行、A鉄道区間は51km以上が対象、B乗車券のほか急行券・特急券も利用できるが寝台券は対象外 などが特徴で、割引率は職員の勤続年数・職位("職群"と称する)や発行年代によって変わるが、特別な無料パス(戦後は職員本人に限る)を除いても7割〜5割というかなり格安なものであった。国鉄職員の割引制度はかなり大昔からあったが、国鉄の赤字が深刻化するにつれて一般国民の批判を強く受けるようになり、民営化頃に制度の改正が行われてからは「職」影文字が入った職割券をあまり見掛けなくなった。(但し、北海道や四国では新会社に移行後も[北][四]が入った新券が出ているので、全くなくなったというわけではない。) 恐らく新会社毎に漸次新しい割引制度が発足したものと思われるが、機を同じくして"硬券"制度のほうも廃止に向かったため詳細はよくわからない。


左: 常備式職割乗車券の例(門司印刷場)。鉄道乗車証に印刷・捺印される「職」の文字は丸で囲む("マル職")例が多いが、門司印刷場調製の硬券は「小」「学」などと同様に"マルなし"が特徴だった。また、職割は51km以上の区間が対象となるため、B型常備券(赤地紋)での設備は少なく、特に仙台印刷場管内ではほとんど例を見ないという。前述の通り、職割券の購入には割引証が必要なので、原則として一般人が購入することはできないはずだが、乗車券専門誌やオークション上ではこのような未使用券もしばしば見掛ける。一体、どのようにして入手したものなのだろうか?
 職割券は、発売対象が職員及びその家族に限定されているにもかかわらず、全国のたくさんの駅で常備式のものが確認されており、一部の駅には常備往復乗車券や新幹線を含む常備自由席特急券・特定特急券、稀に指定券類でも「職」赤影文字を加刷した専用券が存在したことが判明している。筆者は、以前から職割券が常備式を設備するほど売れるのか疑問に思っていたが、調べてみると駅周辺に集中して国鉄官舎が存在する場合や国鉄の保養所などが近いケースでは、割引率が高いこともあって意外にも相当な需要があったという。


左: 通常の常備片道乗車券に「マル職」のゴム印を捺して代用した例(札幌印刷場)。専用券がない小駅では、多くの場合この方法が採られたと考えられる。「職」制度の券は、この他にも「代用証」(常備式・補充式硬券または大型軟券)などもあり、時期により地域により非常にバラエティがあって、全てを網羅することは難しい。なお、少なくとも北海道地区ではJR発足後に「職」が廃止されて新しい制度に移行し、追分・新得など一部の駅で社員家族用の「購」影文字が加刷された乗車券(D型の常備往復乗車券など)が見つかっている。(但し、これも平成11年4月頃に廃止されたとのこと。)


 全くの余談になるが、根室本線芦別駅には左のような「身」影文字入りの常備式"身体障害者割引乗車券"の設備があった。国鉄の身障者割引は昭和24年の「身体障害者福祉法」に則って導入された制度で、国鉄線を101km以上利用する場合に、@第1種(重度)は身障者本人と介護者の運賃と急行料金を5割引、A第2種(軽度)は身障者本人の運賃を5割引きするものと決められていた。常備券はこれ以外には深川駅発行(同じ着駅)のものくらいしか見たことがないので、「これらの駅周辺に何らかの身障者施設があって頻繁に札幌間を往復する需要があった」等の特殊な事情が推測される。
 これも余談だが、影文字(袋文字)に関しては、ポピュラーに見掛ける「小」「学」「復割」と上記「異」「職」「身」の他に、古くは「兵」(戦前)「衛」(多くは略字/自衛隊用"後払い"専用券)「公」「警務」などかなり特殊なものも知られている。いずれも発行対象がかなり限定されているにもかかわらず、やはり常備式の券が見つかっており、オークション等でも滅多に見掛けることはないが、もし出品されれば非常な高値が付くことは間違いない。


(4) 極端に運転本数が少ない区間やほとんど列車が停まらない駅の常備式乗車券類

 切符が売れない背景には、「周辺人口が希薄で利用者がほとんどいない」通常のケースに加えて、そこそこ人口があっても「極端に運転本数や停車本数が少ないために"利用したくても利用できない"」という鉄道側の事情に因ったものも考えられる。特に国鉄では、深刻な赤字が問題になってきた昭和40年代の後半から急激な合理化を推し進めた結果、赤字路線で運転本数を極限まで削減した線区が全国各地に見られるようになったが、その中には何らかの理由で無人化できずに引き続き乗車券類の発売を継続したケースがあり、「ほとんど売れないのはわかっているが何となく口座を維持している」常備券もあったと思われる。また、ほとんど列車が停まらないので当然無人化されて然るべき小駅で、稀に切符の発売が行われていたケースもある。"意外な駅で意外な常備式硬券に出会った"収集家は少なくないのではなかろうか。

上: 昭和59年3月一杯で廃止になった清水港線の常備「一般式」片道乗車券及び三保駅の入場券(名古屋印刷場)。清水港線はもともと東海道本線の貨物支線として開業した経緯があり、昭和30年代には貨物輸送の黒字で営業係数が全国一になったこともある。しかし、旅客輸送のほうは全く振るわず、沿線はかなり人口も多かったが、最晩年は朝に下り1本、夕方に上り1本のわずか1日1往復(しかも"貨客混合"列車)となってしまい、しかもその乗降客の大半が折戸駅(35.-2.20.無人化)を利用する通学生(当然"定期券")だったという。特に上掲(左上)の三保―折戸間はわずか2.2kmしかないうえ、夕方16時台の下り1本だけでは地元民がわざわざ国鉄を利用するとは思えず、気候がよければ歩いてもたいしたことはない距離なので、実際に乗車する目的でこの券を購入した人はほとんどいなかったと考えられる。また、清水駅にも清水港線用の常備券(中央)があったようだが、なぜかいずれも「一般式」で設備されており、皮肉なことに廃線間際には大量に売れた模様。

上: 平成元年4月一杯で廃止になった名寄本線湧別支線の常備「一般式」片道乗車券及び湧別駅の入場券(札幌印刷場)。湧別駅の近くには旧湧別町役場などもあって、一応"町の看板"を背負ってはいたが、当時から商業施設・銀行・高校などは交通の要衝でもあった中湧別駅周辺にあり、無人化頃(昭和56年)の湧別駅の乗車客数はわずかに55人で、中湧別駅の1/10程しかなかったという。中湧別―湧別間は名寄本線の支線ではあったが、実際には湧網線とセットになった列車ダイヤで運行されており、しかも晩年には朝夕の2往復だけになってしまい、周囲には結構民家があったにもかかわらず、「利用したくても利用できない」状態となっていた。貨物の取り扱いも昭和53年には廃止されて、駅員を配置する必要性は全くないように思われるが、意外にも駅の無人化は廃止のわずか数年前(昭和61年11月)のことで、それ以降も簡易委託による乗車券発売が行われていたという。ちなみに、筆者が昭和59年2月に同駅を訪問した際は、たまたまなのかもしれないが、なぜか駅員不在で出札口も閉じていた。(列車の来ない昼間は業務を行っていなかった可能性もある。) こんな状態では、特に入場券など地元の方が購入するはずはなく、これらの硬券のほとんどは鉄道マニアが買っていったものと思われる。

上: 昭和62年3月で廃止になった士幌線のバス代行区間の常備「相互式」片道乗車券(札幌印刷場)。糠平―十勝三股間の列車運行が休止になったのは昭和53年12月24日で、詳しい経緯については"鉄道・小さな駅探訪"20.士幌線十勝三股駅を参照のこと。翌日からは地元の"上士幌タクシー"委託による代行バス運転が始まり、結局は列車運行が復活することもなく、約10年後に廃線となっている。代行マイクロバスはワンマン運転ながら一応料金箱も備え付けられており、普通のバスと同様、必ずしも乗車券を用意しておく必要はなかったのだが、上掲のような専用の簡易委託券も発売されていた。(美幸線など他にも例はあるものの、当時「相互式」は道内では稀な様式なので、何か特別な意図が感じられる。) 確認されているのは4種類で、他に「糠平<-->十勝三股」の大人用と「幌加<-->糠平」があったが、このうち「幌加<-->糠平」だけはなぜか"(簡)幌加駅発行"となっていて、ちょっと解せない。当時、幌加駅周辺には既に全く人家がなく、切符発売を委託するところがないうえ、これまた5戸14人しか人口のない「十勝三股ゆき」があって「糠平ゆき」がないはずはなく、これはやはり"(簡)十勝三股駅発行"の誤りと考える収集家が多い。(そのためか若干高めで取引きされている模様。) しかし、肝心の十勝三股駅周辺の乗車券委託先もはっきりわかっておらず、一応昭和54年9月発行の連綴式軟券も見つかっているので、筆者は上士幌タクシーの事務所兼待合所で発売されたのではないかと思っていたが、"へい"様によると少なくとも昭和60年8月頃は"代行バスの車内"で売られていたという。("ダッチング"はどうしていたのだろうか?また、右の「無効」印もどこで捺されたものか謎だ。) しかし、バスに乗ってからわざわざ乗車券を購入する必要はなく、硬券は多分に「鉄道マニア」向けではなかったかと思う。代行区間には他に2つの停留所("スキー場入口"(糠平―幌加間)と"幌加温泉入口"(幌加―十勝三股間))も新設されたが、いずれも"仮乗降場"の扱いなので一応乗車券はこの4種類でほぼ間に合うことになるが、実際、地元の方でこれらの切符を購入した方はほとんどいなかったのではなかろうか。


◆ 参考文献:「国鉄乗車券類大事典」(近藤喜代太郎/池田和政・JTB・2004)/「国鉄きっぷ全ガイド」(近藤喜代太郎・日本交通公社・1987)/「鉄道きっぷ博物館」(築島裕・日本交通公社・1980)/「鉄道きっぷ大研究」(辻阪昭浩・講談社・1979)/「地図式乗車券のすべて」(徳江茂/久田進一/小田規夫・日本交通趣味協会・1984)/「鉄道入場券図鑑」(金井泰夫/長沢博之/高橋雅之・日本交通趣味協会・1980)/「鉄道切符コレクション」(澤村光一郎・ミリオン出版・2008)/「交通趣味」( 日本交通趣味協会・1971〜) など